囀る
56話を読み取る上で、矢代はんにとってのセックスの矛盾について考えながら、7巻以降のメキの行動が、彼なりの配慮であると仮定した時、わかってきたことなど。
1〜6巻までの、矢代論を纏めるにあたって、前半の矢代の百目鬼に対する態度の変化を見なおしたのですが、改めて矢代にとって"普通に優しく抱かれる"ことの困難が見えて来ましたので、新 井波論でも語ったことなのですが、百目鬼の矢代への配慮とともに見ていこうと思います。
百目鬼が不能で自分に気がない、と思っていた頃は安心もあり、不憫に思う気持ちが勝っていたことから、矢代は百目鬼に対して目に見えて優しい振る舞いをしているが、百目鬼が、嫌ならそういってくれなどと、いったり、積極的に性処理しようとするなど、やや態度に変化を見せ始めた頃から自分の言動のコントロールを失っていく。
愛されることを知らない矢代は、僅かでも誰かに好意を向けられるだけで、否応なくそれに縋ってしまいそうになる自分を抱えているはずである。"女の子"だから虐待される、と義父に言われたせいで、女のように抱かれる自分に嫌悪を感じるが、本音は本来の自分で(男か女を抱くように自然な形で)抱かれたい自分がいる。吐き気とは、嫌悪であると同時に強烈な渇望の裏返しとも言えるのでは、とも思える。
この捩れを治すには、ただ優しくされるだけで、即解決しないのは予測がつく。彼の中で、暴力による痛みが、愛着と分かち難く結びついているからである。
それは虐待を受けていない人間にとっても、ともすれば曖昧になり、踏み外せば隘路に落ちてしまう、それほどセンシティブな問題でもある。それはひとえに、"物理的に挿入するものとされるもの"、という関係性そのものが"セックス"の一つの形であるからとも言える。
そこを完全にフラットにするのは、問題のないカップルであってもなかなか難しいわけで、矢代のような人間にとって、それがなおさら困難になるのは想像に難くないわけである。
6巻最後での七原の話から百目鬼はそのことを何となく理解する。そして、身を引くことを選び、再会してから、矢代が自分にどうにかして欲しいのだと気がついた時、それに答えるために、好意を全面に押し出さないセックス(彼が吐き気を催す恐れのある女を抱くような優しさに満ちたものではない)という配慮をして作り上げた性行動をとったと考えられる。
しかし初めのうちは、すでに百目鬼を失ったと思い、百目鬼の言動の意図が分からない矢代との間に、若干のミスマッチを起こしてしまう。
7巻以降の矢代には、5巻セックスの後大きな変化が起こっていることが明らかになる。
セフレとのセックスで性的な興奮すら得られなくなっており、一方で暴力的なものではあるが、百目鬼の配慮されたセックスに吐き気を催すこともなく、否応なく興奮してしまっている。
しかしそれでもセフレとの暴力を介したセックスを求めるのをやめられない。
百目鬼以外に勃たないことを確認し、彼を手放した心の痛みを誤魔化す意図もあるが、矢代にとって
セフレとのセックスをやめる、それは長年依存してきた暴力的なセックスを手放し、今までの自分を失うことであり、彼にとっては大変な恐怖となるからとも言える。6巻で百目鬼を突き放したのも、彼の命を守るためと同時に、そのことを恐れたからである。
心の中では5巻の時点で確信していたことを、身体の反応から、今度こそ本当に受け入れるしかない。それでも百目鬼の行動の真意が読めず、自分の独りよがりになっているとも感じるが、百目鬼がスミを入れているの(自己犠牲の証)をみたことで、今でも自分に気持ちがあることはさすがに悟ったように思う。(矢代にとって愛することは痛みであり、自己犠牲として表現されるのは、自らが影山のために身を落としたことから分かるため)しかしそれでも、愛されたことのない矢代にはどこまで行っても確信がない。ましてや以前とは全く違う抱きかた(性処理目的であるかのような暴力的であるし、親しんだ女がいるかのような風情でもある)を百目鬼がしてくるのであればなおさらである。
そうなると56話で矢代がしたかったのは、最低でも百目鬼が自分とセックスしたいのかどうか、知りたかった、と言うことになる。そこには自分が求められているかどうか、を知りたい気持ちが潜んでいるのだが、そうなると優しく抱かれたい自分が顔を出すので、そこまではまだいけない。
百目鬼は限界まで矢代の本音を引き出そうとSDカードをネタに、(SDカードを見つめる百目鬼の心理としては本当にセフレとは勃たないこと、矢代がまだ好意を全面に押し出した5話のようなセックスを受け入れるのは難しいということの再確認、ではどうすれば良いかを考える時間、と考えれば、それを見つめる時間の長回しも頷ける)痴話喧嘩を仕掛けるが、まだそこまでいけないことを悟って、自分の気持ちを押し付けることはしない、それは彼の7巻当初からの配慮ではないか。そのような限りなく普通のセックスに近い意味づけのないただのセックスは、望ましい形の自然なセックスの入り口に立っているように、私には見えて仕方ないのである。