2019リメイク版アニメ『どろろ』の批判です(5000字くらい) これは「どっちも悪いとこあるんちゃいますの、ホントのとこは当人しか知らんけど」って松本人志の雑なニュースコメンテートみたいなアニメだ!
正義とはある意味で旗印だ。その御旗のもとに人は集まり奮起し、大きな力を生む。
旧アニメ『どろろ』のオープニング「どろろの歌」は、さむらいの言う正義が搾取を正当化するための綺麗事にすぎないことを看破する歌だ。天下を目指して今日も戦う、これも世のため人のためだ、と言うさむらいに、どろろは「とぼけちゃいけねえ、知ってるぜ!お前らみんなホゲタラ(ばかたれ)だ」と笑う。そのいくさで苦しんでいる者こそさむらいに搾取される世の人たちじゃあないか、聞こえのいい言葉でさむらいの権力闘争に振り回されてたまるか、と。
だがそれは正義概念そのものの嘲笑・否定ではなかった。どろろが看破したのは偽りの正義が振りかざされていることで、それを正すのは正義の力だ。オープニング映像の中で、どろろは民衆の陣頭に立ち、一揆革命に立ち上がる姿が描かれる。作中でも鯖目の回、また最終回でも、どろろは領主に立ち向かう一揆にときには参加し、ときには主導し勝利に導く。
不正義を糾弾することができるのは、人が正義というものを信じているからだ。不正義を糺そうとする正義を人どうしが共有できればこそ、人は結集し力を合わせ、強い力を持った活動のうねりを起こすことができる。それこそが、無力な者がまん延する不正義に対抗し戦うための唯一の道筋だ。
一方で、新アニメの『どろろ』が描いたのは、相対化され無意味無価値になった正義だ。「誰にも自分の守りたい正義がある」、「誰が正しいかなんて本当は言えない」。2陣営の利害の対立を描くこのアニメはこうした言葉でしばしば評されている。だがその言い草は、正義から余人の心を動かす力、人々をひとつところに集めようとする力を奪うことだ。正義が力を持てなくなったとき、誰の言葉がまかり通るかは、正義の力を借りずとも力を持つものが決める。それはすなわち既存の権力だ。このアニメの作劇はその腐敗した醜悪さにひどく無自覚だったように見える。
新どろろのあらすじはこうだ。
主人公百鬼丸は生まれてすぐ、一国の領主である父・醍醐景光に鬼神どもとの契約の生贄に捧げられた。彼の肉体と引き換えに鬼神どもは醍醐の地を栄えさせた。だが五体の自由を失って流された百鬼丸はそれでも義手義足、作り物だらけの身体で生きていた。百鬼丸が義手の仕込み刀で鬼神を倒すたび彼は人間の身体を取り戻すが、鬼神との契約の効力を失った国は滅びに近づく。
国かひとりの人生か、そのトレードオフを考えさせるのがテーマのアニメになっている。
原作との最も大きな相違はこのトレードオフだろう。原作では百鬼丸の再生が直接醍醐の国に衰退をもたらす描写はない。
身体を取り戻そうとする百鬼丸側の理と対立させるべく、原作では卑劣な倒すべき権力者と描かれていた父も、国を栄えさせたいと願うそれなりの道理のある人物と書き換えられている。
父の意志のもと百鬼丸と直接戦うレギュラーのライバルとして、原作ではすぐに死ぬ弟の多宝丸が生存しているのもおもしろい。
だが、その差のためにこのアニメは、「権力者が『より多くの国民が幸せになるためなら仕方ない』と国家の利益のために個人を殺すのも、個人がそれに反抗するのも対等である」というおぞましい腐臭を放つメッセージを際立って語りかけてしまっている。
これを対等というのはあまりに権力勾配に無自覚だ。
対等ならまだよいかもしれない、百鬼丸が父である領主に仕える兵士を斬れば「人間を斬るのか、弟を、父を斬るつもりか、そんなことをするのは人間ではない、もはや鬼神と同じだ」と悪鬼のように咎められる。一方で、弟・多宝丸は民と友を思いやる次代の為政者として、生きているだけで国を苦しめる百鬼丸を斬る決意を悲劇的に固めていく。原作の悪役へのイメージをよい方向にコントロールしたいのだろうが、非常に気持ちがわるい。
脚本は『仮面ライダー龍騎』『仮面ライダーアマゾンズ』などで鳴らした気鋭の脚本家・小林靖子で、『龍騎』の個人主義による正義の相対化、『アマゾンズ』の呪われた生まれの物語を本作はうまくもじったとも言える。だが仮面ライダーの1対1の戦いならばともかく、そびえ立つ絶大な権力に苦しむ人の前で「ほんとうの正義なんてないのさ」などというニヒリズムはただの現状追認、加害への加担でしかない。
このニヒリズムは現代の病だ。ひとつの正義への依拠は思考の放棄と揶揄して、けっきょくなんの判断さえも放棄してしまっている病。公平なつもりで強者の論理への依拠をずぶずぶと深めていく病。その病を切除して標本を取り上げる、現実の病巣に警笛を鳴らすのもフィクションの役割だろうに、むしろその病に重篤に罹患してしまっているのがこのアニメだ。毒に気をつけなければ病がうつる。
『どろろ』で出色のエピソードと言えば『ばんもん』だ。
板門店やベルリンの壁をモチーフにしたこのエピソードは、戦争の中建てられた壁に家族を引き裂かれ、権力に居場所と生きる意志を失わされた子どもを哀しくも怒りを込めて描いた、時事批判精神にあふれた傑作だ。
村人の疑心暗鬼に殺されかけるどろろ、子どもふたりの命がけの国境越え、非常にスリリングな展開の果てに突きつけられるやるせない現実。それに怒りをぶつけるどろろの叫びが胸を打つ。
新アニメのどろろはどうか?
ベルリンの壁は崩れたが板門店にはまだ壁が立っている。アメリカのトランプ大統領は国境に壁を立て移民を排斥する計画で支持を集めている。壁は過去のことではない、世界中が反動的排外主義に向けて動いている。
その時代に対し、このアニメは、どろろは怒りの声を上げられているか?ニヒリズムはどろろから不正義に立ち上がる理想の力を奪ってしまった。
金があればさむらいのない国が建てられる、金は武力に対抗できる力だとどろろは言う。それは一見、夢想的な理想論から脱却した現実的な目標に聞こえるが、さむらいが象徴するイデオロギー、「力のないものは食い物にされる」「乱世で生き残るにはそれは仕方のないこと」を、悲しい顔をするばかりでどろろが強く否定できていないのに「さむらいのいない国」など建てようと、それは空虚で、武の力の論理が金の力の論理に取って代わられるだけだろう。
実際、新アニメでも『ばんもん』をリメイクしているが、そもそも百鬼丸の出生の因縁を語る回と割り切った内容で、国境問題を取り上げる色は薄い。
それは脚色の方向性と受け止めることもできるが、ゲストの少年・助六に取って付けたような救済が与えられる、単純にどうにもばかばかしい内容だ。
ついでに細部内容に関して言えば、リメイクにあたっての根幹設定のこだわりはなかなかのもので、最初は体のすべてを奪われ、表情は動かず喋ることもできない主人公・百鬼丸は、「これで主人公を好きになれるのか?」と心配するほど挑戦的な描写だし、どろろのデザインもツンとした表情があざとくなくかわいらしく、この主役ふたり、無気力そうな美青年の世話を焼く跳ねっ返りの少女、というのは百鬼丸の無表情を補って、見ていて微笑ましいコンビだ。
だが、それに相対するキャラクター、それも新アニメのコンセプトに関わる多宝丸周りのキャラクターがいまひとつなのは、前述のメッセージの醜悪さをごまかせていないひとつの要因だろう。多宝丸の家臣としてアニメオリジナルの姉弟キャラがいるのだが、どうもありきたりな造形で、多宝丸との主従を超えた幼馴染の友情もあまり響かない。
彼らは明らかに多宝丸のキャラを見せるための追加要素であるし、彼らとのシーンで「百鬼丸には憎むべき敵でも、仲間には見せる人間らしさ」をより身近に見せることができていれば、多宝丸の語りに訴えかける力もあったろうが、迫害者が通り一遍のきれいごとを言う白々しいいやらしさにしか映らない。
とくに最終回、醍醐が自分から奪ったものを返せ、と百鬼丸は勝手を言うが、おれこそ母の愛を百鬼丸に奪われたのだ、と嘆く多宝丸は「どっちもどっち」のいやらしさそのものだ。国が人を追い詰める圧力を個人間の問題にすり替えている。挿入される多宝丸の明るく懐かしい過去の情景も、多宝丸に同情させようと陳腐かつ欺瞞的だ。百鬼丸は奪い合いの連鎖から降りることで人でいられる?とんだトーン・ポリシングだ。
百鬼丸陣営も、どろろの見た目や所作の可愛らしさはともかく、芯のなさは鼻につく。等身大の少女らしく描きたいのかもしれないが、百鬼丸にただくっついているだけのようで、この乱世を子ども一人で生き抜いてきたんだぞ、というたくましさ、向こうっ気の強い主張が感じられない。
いっそ百鬼丸がただ好きで守りたいだけの少女ならそれはそれで愛らしいキャラクターなのだが、マイマイオンバの回では「兄貴が身体を取り返そうとしなければこんなことには」と嘆き、最終章では「兄貴が身体を取り戻そうとして何が悪いってんだ」と他人に怒り、結局同じ話の中で「兄貴、目も手ももう取り返さなくていいだろう、俺が目になる手になるよ」と、大した変心のきっかけもなく話の都合でコロコロと都合のいいことを言わされている。
マイマイオンバの回、領主の妻の正体が妖怪マイマイオンバであることを知ったために領主・鯖目に焼き殺された孤児たち。どろろはその霊と交流し、「どろろは優しくしてくれたから」と、オンバに殺されかけたところを霊に命を救われる。だが鯖目の治める村がオンバの庇護を失い焼失したことに「こんなひどいことになるのにオンバを倒す必要があったのか、兄貴」と他人事のように困惑するどろろには耳を疑った。共同体の豊かさを維持するために犠牲にされた孤児たちの痛みにふれて、まず出てくる言葉がそれなのか?孤児たちが黙って死んでいれば村は豊かなままでいられたとでも言うのか?
それはひとでなしの言葉だ。どろろたちはよく「百鬼丸が自分の体を取り戻そうと暴走を続ければ人でなくなってしまう、鬼神と変わらなくなってしまう」と言うが、不当に苦しめられた人の声を、それで喜ぶ人との足し引き算、功利の多寡で裁こうという人間こそひとでなしではないか。
さらに問題があるのは百鬼丸の母・縫いの方だ。
彼女は百鬼丸の父・醍醐景光の権力欲をいさめ百鬼丸の身を案じる賢母だったが、まさに百鬼丸と対面した瞬間「この国を守るためには、私に百鬼丸を救うことはできない」と、国のため百鬼丸を見捨てる決意をする。善玉よりの賢母のままだった原作に、そこから「国のため」というカルマを飲み込む変化が描かれるのがおもしろいキャラクターだ。
そこまではまだよかったが、その裏切りを悪びれないのか後悔するのか半端に動かされてしまい、多宝丸側の論理をさらに醜悪に見せる手助けをしてしまった。裏切ってなお百鬼丸に会いたがるのは自分の過去の行動をなんだと思っているのか理解できないし、上等な着物姿のまま傷病兵を見舞ってみせる「武士の妻も下々のことを考えてますよ」アピールはあまりにも臭い。それを評し、さも民衆感情を代表してますという顔のモブ・キャラクターの白々しさときたらない。
そして極めつけは「兄貴をいじめて、人より国のほうが大事だってのか?」と批判するどろろに対し「それは残念だが国のほうが大事なのだが、百鬼丸ひとりに重荷を背負わせて私たちが鬼神に赤ん坊のように甘えていたのが良くなかった」という見当違いな答えを出す。
「実際のところ人権より国の繁栄が大事だが、そのために問題がある人物とは庇護に甘え何かを獲得しようと努力しない人間のことだ(それは百鬼丸ではなかった)」という結論を、障害者を追い詰めて国が殺すアニメで書くのか!?日本はつい2年前、生産性がないという理由で障害者を大量に殺した犯罪者が現れた国だ。その犯罪者が総理大臣にシンパシーをいだき接触も試みていたというのに、事件後「その考えは間違っている」と明確に表明することを避けた総理大臣のいる国だ。権力に追いやられる人間を描く、障害を持つ人間を描くうえで意識の欠如もはなはだしい。
新アニメは『どろろ』をより多面的な、より奥深い物語にしようと考えてこのテーマに取り組んだのだろう。複雑な現代に共感が得られる、善悪を考えさせる物語にしたいと考えたのかもしれない。その取り組みはおそらくある程度成功している。「百鬼丸側の正義と多宝丸側の正義、どちらも正しいのがじれったくハラハラする」「勧善懲悪を超えている」と楽しむ評価はしばしば耳にするところだ。
だが、この作品もそうした受容も断固批判する。声高に叫ばれるある正義の白々しさを暴くのはよいだろう。だが正義すべてを白眼視した挙げ句に強者の論理を擁護する、それはアニメ作品の出来不出来を超えて社会の問題で、この作品はその問題に加担させるべく誘導してしまっているではないか。それは問いかけるべき正義の不在などではない、きわめて卑俗で醜悪な不正義というものだ。
おまえらみんな、ホゲタラだ!