プロメア観てきたんですけど、中島かずきさんが「『差別を受ける者との共生』という自分にとってのテーマの集大成」と仰っているのを踏まえた上での雑感です。酷評に近いので注意して下さい。(ネタバレあり)
『プロメア』を観てきた。
劇場で予告版を目にしたときから気になっていた映画である。
予告で流れていく映像を観ながら「キルラキルっぽいなー」と思っていたが、制作者陣が同一と知って俄然見る気になった。私は周囲の熱狂を余所に「グレンラガン」も「キルラキル」も観ていないのだ。映像や演出の格好よさに気を引かれつつも、横目で眺めるだけで終わっていたアニメの制作者陣が映画を作ってくれるというのだから、観ない手はない。
そして意気込んで鑑賞してきたわけだが、結果的にいま寝込んでいる。
正しく言うと、映画の中盤からもう寝込んでいた。
鑑賞から三時間経った今、頭にのぼった血を冷やすために額に冷えピタを貼ってこれを書いている。
楽しみにしていた『プロメア』だったが、結論から言うとすごく違和感が残った。
のみならず、正直なところ怒りさえ感じてしまった。
以下は作品を観る中で感じた違和感を自分なりに追求した覚書き及び雑感であるが、制作者の中島かずきさんが「マイノリティとマジョリティの共存」をテーマに挙げていることを踏まえて、そのあたりの観点から言及する。
『プロメア』は、突然変異で身体から炎が出るようになってしまった人間<バーニッシュ>を巡る物語であり、主人公はバーニッシュが起こす火事を消す『高機動救命消防隊<バーニングレスキュー>』に所属する青年ガロと置かれている。
つまり、バーニッシュがマイノリティであり、それ以外の市民及びバーニングレスキュー側がマジョリティであるわけだ。
作中で示されるバーニッシュ設定の一部を並べると
(1)バーニッシュは人間であり、突然変異である(主にストレスを契機とすることが冒頭で述べられ、能力者がイコールとして弱者や傷つけられた者であることが描写される)
(2)バーニッシュの出現と彼らが起こした火事により、過去三十年の間に全世界の半分が消失している
(3)バーニッシュはその特性によって人類にとって「危険(有害)」とされている
(4)上記の有害性を含むことなどを理由に、マジョリティから差別されている
(5)バーニッシュの一部はテロ行為を繰り返し、<マッド・バーニッシュ>と呼ばれている
(6)バーニッシュが炎を使うのは自身の内面から聞こえる「燃やせ」という声に従わざるを得ないからであり、バーニッシュとしての特性はアイデンティティである。(中盤で明かされる設定。1で述べた設定のぐらつき)
(7)バーニッシュの突然変異は、実は宇宙人による寄生的な変貌だった(6で述べられたマイノリティのアイデンティティの否定、信条や宗教的な物語の矮小化、「それは治る病気だったんだよ」という帰結)
箇条書きで書いても、既にマイノリティを書く上での危うさに突っ込んでいっているのが分かる。
これからは上記の箇条書きを踏まえて、どのへんが個人的に引っかかったのかについて言及する。
【ラスト】
一番最初にラストが来るのは、ラストが一番問題だと思ったからである。
諸々は省いて物語の終盤について言うと、政府側でありマジョリティサイドの主人公のガロと<マッド・バーニッシュ>の親玉でありマイノリティサイドのリオは結託して、地球の破滅を阻止するのであるが、その過程でリオたちバーニッシュの持つ能力は「消滅」してしまう。
そしてリオたちバーニッシュは、ガロたちマジョリティと同じ存在となって、大円満のハッピーエンドを迎えるのである。
この帰結が、とにかく頂けない。
「マイノリティだった人間たちは、それが治って『ふつう』(マジョリティ)になれたのだった、ヨカッタネ!」というラストは、マイノリティとマジョリティの問題を描く上では(しかもマジョリティからマイノリティへの差別描写を濃厚に描写しておいてである)、絶対にしてはいけない。
ファンの人たちを不快な思いにさせることを承知で、更に一部暴論とは思いつつあえて、あえて述べるが、これはレズビアンに対して「おちんちんで同性愛を治してあげる」という発想と同じくらいのヤバさを持つ。
同性愛とバーニッシュは差別されている理由が違う、と反論されるかも知れないが、差別されていい理由などない以上、マイノリティとしての文法は同じである。そしてマイノリティを物語るにおいて、彼らがマイノリティたる理由や根源を矮小化することは、構造上においても、絶対にしてはいけない。
同性愛がおちんちんで治るという発想は、それが「本人の気の迷い」であり「病」であるように認識されているからだ。
それと同様、『プロメア』は(7)で語ったように、バーニッシュのアイデンティティを「宇宙人との共鳴」という外的な要因で位置づけることに帰結してしまう。これにより、一種の「操られ」的な視線を持ち出すことにもなり、作中にリオがあれほどまでに守っていたバーニッシュのアイデンティティは矮小化、病化されてしまうのである。
マジョリティとマイノリティの共存は、マイノリティの特性を消滅させることでは決してない。
それ故、『プロメア』のラストはそれがハッピーエンドとして描かれていることに、無類の怖さを感じるのだ。
【バーニッシュに対する設定と描写のブレ】
上記でも述べたが、作中に出てくるバーニッシュ、マイノリティに対する描写の肝が据わっていない。
そもそも、(1)はどこに行ってしまったのか。
冒頭で描かれるのは、満員電車に揺られている最中に発火する男性(細かく描写されていないが、恐らくは社畜として搾取されている)や、DV被害に遭って発火する女性である。
「過去の記録」的な映像として見せられる突然変異の様子は、不当に傷つけられ、搾取された人間たちの抱く怒りや悲しみの決壊が発火を招いている、という設定の提示に思える。
しかし、そうなれば本来必要なのはストレスコントロールであり、政府側からの福祉的関与であると思うのだが、次の映像では、バーニッシュは犯罪者として取り締まられ、弾圧される存在へとシフトされている。
三十年間の間にバーニッシュによって世界の半分が消失した、とあるからこの時点でバーニッシュは化け物的な位置づけとして、忌み嫌われる存在になったのだろう……と自分の中で納得したが、もう少し断絶に至るまでの描写が欲しい。
因みに、「虐げられたひとバーニッシュ」の描写は冒頭以降一切鳴りを潜め、もっぱら「周囲に火をばらまく加害性」のみが強調される。
作中、バーニッシュが人びとから「気持ち悪い」と忌み嫌われ、差別を受ける描写があるが、その帰結が設定上そのまま有害性に結びついている。(その割には一般に生活しているマジョリティたちの恐れの描写は希薄であるが)
マイノリティを描く上で、特性を有害性や加害性に結びつけるのは大変危険なことで、仮にそういう設定を持ち出したいのであれば、本当に本当に慎重になるべきである。
しかし、『プロメア』においては特別な目配せなどはなく、寧ろ「有害であるから差別されるのだ」というマジョリティたちの視線に直結している。
「自分たちにとって不利益な存在であるから、排除や差別に値する」という正当化した理論をマジョリティ、更には主人公ガロにおいても持たせているのは、差別構造のあるあるをよく描けているとも言えるが、それについて実際にマイノリティたちに有害性を持たせてしまっているのは、やはり危うい。それは、有害性がある(マジョリティにとって不都合である)なら差別されても仕様がない、という理論をまったく否定しないのである。
あと、テロ行為を繰り返すマッド・バーニッシュの位置づけのグラつきも気になる。
同じ人間であるのに、能力によって迫害を受けるようになったバーニッシュの親玉として「テロ」をしているのなら、本来もっと政治的要素を持つべきであろう。
しかし、リオは(もっと燃やせ)という心の声に従って、言うならば燃やさないではいられないバーニッシュの特性に従って、マジョリティを巻き込まないようにそこら中を放火しているというのである。
個人的に、リオ・フォーティアの性格はかなりグッとくるのだが、バーニッシュの設定がぶよぶよしているだけに彼の知性や正義感や潔癖さや悲しみなどがものすごく宙ぶらりんになってしまっていて辛い。
更に、上記でも述べた(7)のバーニッシュ特性の矮小化の問題がある。
繰り返すようだが、バーニッシュの特性が「宇宙人との共鳴」であったという設定の露呈によって、リオが抱えていたバーニッシュとしてのアイデンティティや誇りは、打ち砕かれ、茶番化してしまう。
更に、このマイノリティ属性の茶番化は、バーニッシュが受けてきた差別による痛みや悲しみさえも、茶番化するものである。
ガロが歩み寄るべきマイノリティの属性が突然矮小化することで、あったはずの差別がうやむやになる。
そしてこの痛みの置き去りは、地球滅亡を阻止するというヒロイックの施行によって顕著になる。
二転、三転する展開はエンタメ作品に求められるべきであるが、『プロメア』でバーニッシュに施行されるのは展開ではなく、単なる設定の後出しであり、そして彼らの誇りを抹殺するものでしかない。
『プロメア』は展開が早く、問題の畳み掛けが多いのも魅力的とされているが、それらの掘り下げが乏しいのである。
作中では更に、『マイノリティの搾取』という地獄の命題が取り扱われる。
個人的には関心のある分野であり、視覚的に訴えられる演出も良かったのだが、バーニッシュのアイデンティティがあやふやであるだけに、しっかりした帰結を持たず、なし崩し的に描かれていたように思う。
【主人公ガロの差別意識】
制作者サイドが「マイノリティとマジョリティの共存」を命題としてあげている以上、『プロメア』は主人公ガロと、リオの相互理解や交感が描かれるべきである。更には、マイノリティに対する差別を取り扱っているのだから、マジョリティ側であるガロがどれだけ当事者意識を持って差別問題に参画するかというのが重要である。
正義感と熱血に溢れる青年ガロであるが、差別に対する意識変化は、二時間の物語を通じて<ほぼない>。
作中、主人公ガロや仲間たちがバーニッシュに対して差別的な発言をする演出が目立つが、これは差別意識はごく一般の善良な人びとにも存在するという意味を持たせるための、制作者側の意識的な描写だろう。「バーニッシュでも飯を食うのか」というガロの台詞は、分かりやすくガロがバーニッシュを人間扱いしていないことの表れである。
物語が進むにつれて、ガロはリオとタッグを組んで巨悪に立ち向かうようになる。ガロは、リオとの会話を重ねることでバーニッシュたちとの距離を詰めていく。しかし、そんな描写を重ねつつも、ガロは(自身がバーニッシュを忌み嫌い、差別してきた側の身でありながら)彼自身の有罪性に向き合うことが全くない。
ガロのヒロイックな意識は、迫害されるバーニッシュへの同情や、さらなる巨悪への登場のために立ち上がるが、自分が差別に加担してきた人間であること、つまり、マイノリティであるバーニッシュを非人間的なものとして排除することに疑問を持たなかった<バーニングレスキュー>としての己、への内省を持たないのである。
作中、ガロは自他共に認める「馬鹿」であることが繰り返される。
これは正義感によって突き進む向こう見ずさをアピールするものであろうが、個人的には馬鹿と名乗ることで有罪性を回避しているようにも見えて違和感があった。
マイノリティが差別されることに、どこまでも他人事、もしくは突如「搾取を赦さないヒロイック」を持ち出すことによって当事者意識を回避する主人公というのは、こと「マジョリティとマイノリティの共存」を命題に掲げている作品に置いては、ちょっと頂けないのではないだろうか。
このガロの意識の弱さは、結果的にリオとのバティ関係の弱さにも繋がる。
『リオに悲しみを与えてきたのは自分だった』という気づきさえ持てないのに、リオに口付けで<力>を与えるのは止めて頂きたい。
なんか色々あって業務上発生するキス、というわたしの琴線に触れまくる演出も、お陰でまったく入り込めなかった。
その他、色々気になるところはあったが、とりあえず、クレイの思想はもっと丁寧に描いてほしかった。
最後に雑感の雑感だが、発火能力を持つバーニッシュと、火消しのバーニングレスキューという二者関係を中心軸にマイノリティ問題を描くという物語の外殻については、ものすごく好みだったのだ。
それゆえ個人的には、リオとガロの業務上キスの価値を消化するためにも、公式でも二次創作でも構わないので語り直し『プロメア』の作成が待たれるところである。
(おしまい)