『ヰ書』が新規探索者を推奨している理由の話
※もちろん思いっきりネタバレ
身もふたもない表現ですが、テーマが「となりの狂気」だったためです。ええ、ト●ロです。
わたしは、歴戦の継続探索者はすでに半分くらい狂人だと思ってます。非日常と日常が接続され、まざって地続きになってる。舞台設定としてホラーではあるけど、その精神性は異世界スリップものの主人公に似て「俺の日常はこんなはずじゃ…」的なことを言いつつ非日常になじんでしまっている。そして、非日常に対して「正気」であることは、日常における「狂気」に通じている。いつの間にか人の死にも異常な存在にも慣れ、それまでは無意識に守っていただろう社会秩序や法や倫理を軽視して、超常現象の追跡にやっきになったりする(SAN上限圧迫は、神話的な知識というよりも、「もう戻れないくらいにまともな世界から遠ざかってしまう」という感覚なのかなと)。
そんな歴戦継続も好きなんですが、わたしの個人的な浪漫ポイントのひとつに「新規探索者の最初の一歩」があります。どんな探索者にも最初の経験がある。今までの日常の薄ーい被膜の向こうにそういうモノやコトはずっとあった、それを知らなかった自分にはもう二度と戻れなくなった、"その瞬間"ていうやつです。
で、その最初の瞬間はせっかくだから、いかにもSAN0の悪役=わが身からはるか遠いところにいる理屈の通じない犯罪者ではなく、普通にしゃべったり頼ったり逆に心配したりする近しい関係の"隣人"によってもたらされるのって浪漫だよな、と思ったわけです。るるぶでは政治的に強火な人も狂信者カテゴリだし、SAN0廃人と違ってどんな個人でもそれなりに日常生活を送るし友達もいておかしくない。かつ、盲目的信条や崇拝や心酔だけが狂気じゃない。むしろ、想像力の欠如・他者への無関心が根底にあって、ただ自分の好奇心や知識欲に忠実な「だけ」の人というか……サイコパスと呼ばれるほど明確でないにしろ、そういう傾向がある人間も少なくないと思います(自分の行動が他者にどれだけ害や悪影響を及ぼすかなんて、四六時中気にしてたらそれこそ病むので、「他者への無関心」「想像力の無意識的シャットアウト」は自衛でもあるし)。
その好奇心と無関心が他人よりちょっと強かったがゆえに知らなくていいものを知ってしまい、まずいものに加担してしまって、そして困ったことに心から「ヤバイ」と思うことができていなかったのが、作中における友人NPCです。彼/彼女が自分の致命的な愚かさに気づいたのは、友達である探索者(この時点ではまだ"探索者"になってすらいないけど)を目の前で殺された瞬間だったわけで。自覚が遅きに失したと知って、泣きわめきながらリカバーしようとして事故ってあの状態です。馬鹿なのは否定できませんが、実際、自分が意識せずやらかしたことを最悪の形で突き付けられてパニックになるの、結構実体験としてあるモンなので、自分はそういう過ちを犯さない、とは、胸を張って言えない。
まあ、そんな感じで、新規探索者にはぜひ、となりで一緒になって探し物手伝ってくれてる、あなたを心から案じている友人から"その瞬間"を浴びせられてほしいなー、というエグみのある浪漫を詰めました。RPを挟むことで、ちゃんと人間同士のつきあいのある相手から、とん、と一歩、世界の影の側に押し出されてしまう感じになるといいなと。
探索者にはこの愚かな友人を友人だと思ったままでいてほしいなあ、と思う一方で、隣人にもそして世界ににも想像以上にごそっと大きなウロが、理解できない側面があるのだ、という孤独も感じてほしい。探索者になった瞬間てのは、よるべなくて、喪失感があって、しかし知らなかったことを知って世界の枠が一段広くなる感じがして、いいですね。という話でした。
というわけで、この浪漫にもとづく、ヰ書の新規探索者のテーマ(?)がコレ。
We're All Mad in Our Way / Natasha Bedingfield
Bメロ~サビの歌詞と、このさびしい曲調がとてもしっくりくる。
ヰ書を通っていった探索者各位の顔を、けぶる雨の窓のむこうに置いてみたりして楽しんでいます。いや、自分で回した卓以外の探索者さんたちもぜひ、窓の向こうに置きたい(笑顔)