2周目、色々噛み砕いた上で見たらかなり泣けてしまったんだけど、大半が芹沢博士の止まった時計と核爆弾を持っていく所の関係性で、要するに贖罪の物語であり、ガチで信仰の物語なんだよね……(以下追記欄
この映画はさんざん「監督の信仰吐露」何て言われてるし、実際そういう側面もあるけど、物語上における「進行」の形にはかなりキリスト教色が強いんだよね。それは善し悪しではなく、「キリスト教的な信仰観」を通して、「ゴジラという神」を描くと、こうなるんだって言うことで。
で、何が言いたいかって言うと、この映画における芹沢博士はイエス・キリストなんですよ。
それも、「世界を救う存在」としての救世主ではなく、「人類の罪を背負って神にもう一度人類にその愛(この場合は庇護と言ってもいい)を承れるよう謁見する機会を頂きに伺う、一種のいけにえ」としてのキリスト。「神の子」になる瞬間までの、「人としてのイエス」なんですよ。
ここについては今作だけではなく、前作における「核爆弾に断固反対し続けた男」としての芹沢を踏まえていないと見えてこないんだよね。今作だけ見てると、確かに狂人過ぎて「推しに命懸けでエールを送った限界オタク」にしか見えないところもあるw
んだけど、実際は芹沢博士は決して「核爆弾を使う」ことに積極的な気持ちにはなれない人なんだよ。そこはあの時計のシーンに詰まってるんだ。一人時計を眺める芹沢博士は、ずっと悩んでいた。確かに、現状打破のためにも自分の信じる未来のためにもゴジラの存在は不可欠。だからこそ、復活そのものは彼の望みでもある。
けれど、そのために祖父母を苦しめ、今もなお爪痕を残し、人類の生きていける世界を壊しかねない核爆弾を使うなんてこと、手放しで賛成なんか出来ない。だからこそ、彼はずっと時計を眺めて自問を繰り返していたんだと思う。
そんな中、何も知らないマークがかけてきた何気ない話が、彼の中で一つの道を示すヒントになったんだと思う。
受け入れがたいものの力を借りなければ、大切なものを守れない。それは二人とも同じだったわけで。
あそこで芹沢が語ったことは、キリスト教における「赦し」の話なんだよ。
罪をチャラにするとかではなく。
人が潜在的に抱えているものと向き合い、受け止め、その上でそこに捉われずに前に進む。
マークにとって受け入れがたいものであるゴジラ(大いなる自然の荒波)。対して、芹沢にとって受け入れがたいのは核爆弾の方。ここら辺、アメリカ人であるマークと、日本人である芹沢の大きな差異だとは思う。
とはいえ、そんなマークを見たことで、自分なりの決心が出来た。覚悟を決められた。その結論が、あそこで語ったこと。理解出来ないものを受け入れてその上で進んでいく、ってことなんだろうと。
それを示すため、彼は命を懸けて帰れない磔台を上るんですよ。
抱えた核爆弾は「人類の罪」だし、それを以て苦し気に階段を上る姿は、十字架を背負わされてゴルゴダの丘へと登るジーザスと同じ。しかも、ジーザスがローマや古い考えの連中から理解されない先進的な思想の持ち主であり、なおかつ「背負うべき罪のないもの」である点(=彼は核爆弾という人類の罪に対しての純然たる被害者側にいてその罪の発生には何の寄与もしていない)も、芹沢とは重なる点が多い。
あそこは監督なりのゴジラ愛の大爆発であるとともに、大真面目に「キリスト教的信仰観のある文化で育った人間が示す、神への信仰の形」に他ならないんですよ。
そして、あそこで贖ったのは何も核爆弾だけじゃない。愚かにも核爆弾以上に危険な(何しろ生物を強制的に皆殺しにするんだ、ある意味それ以上の大罪の形と言える)オキシジェン・デストロイヤーなんてものまで新たに作り出し、不遜にも神を巻き込んだことへの贖罪も込めて、芹沢はあの場に臨んだ。
「主よ、許したまえ」、と。
その献身を、信仰を示したからこそ、「神」は応えてくれたんだよ。
無論、「生命としてのゴジラ」「星の守護獣の王としてのゴジラ」にとって王を僭称する下品な金ぴか野郎は許せるものではないけれど、あそこで自分を憎むものや不遜にも泥を投げつけた者たちを「裁かず」、単身反逆者の元へ向かったのは、つまり、「イエスの言葉を受け取った」からなんだよね。
あそこは、磔となったイエスに免じて、一度は人の罪を持ち去ってくれた主と同じなわけですよ。
後は、人類次第。
ついでに言えば、あのクソおかあちゃんもギドラによって死なず、ゴジラの手によって死んだのは「神の裁きを受けることが出来た」=「悪魔の元に魂はいかなかった」ってことなんですよ。あれも「贖罪」と「断罪」からの「赦し」なんですよ。
それを踏まえながら見ると、この映画は決して「核だなんだはフレーバー程度」って言えるほどそこを安く見てはいないんだよ。むしろ、エンタメ性の中にすごく上手い形で落とし込んでいる。
オキシジェン・デストロイヤーをあんな安易な兵器として出したのは、デストロイアの伏線の意味も相当デカいと思うけどw、それに負けないくらい、「人類は容易く罪を犯す」ことのメタファーなんだと思う。核爆弾という一つの形にとらわれず、キリスト教的ではあるけど、人間が抱え続ける罪。その形。だからこそ、エンディング後に「死したギドラを首を贖罪を未だに理解しない愚かな人間たちに売り渡してしまう」両氏が出るような状況が生まれているんだよ(魚を捕れないから仕方なく彼らは糧を得るために、悪を行なってしまう。そんな環境を作り出したのは紛れもなくオキシジェン・デストロイヤーなわけで、それは核爆弾と何ら変わらない被害を生んでいるということでもある)。
この映画、全編を通してすごく信仰心を押し出している映画なんだけど、その形がキリスト教的な文脈として凄くきれいにまとめられていて、その上でしっかりとエンタメしているので、これはものすごいことだと思うんですよ。
まあ、もちろん、この見方はかなり深読みしていることは承知しているんだけど、「そういう見方もあるのか」と想いながら見てもらえると、また何か発見の手掛かりになるかもしれません。