今朝テレビで放送された、気象予報士の依田さんと新海監督の「天気の子」についての話が面白かった。
新海監督は、天気について、「人間ではないものが、あんなに遠くにあるものが、人間の心をこんなにも動かしてしまう」ということを言っていて、それそれ!と。
雲の上の世界についても、「雲の上は(地上からは)見えないので、そういうところに人間の知らない世界があったら面白いなと思った」のように言っていた。やはり新海監督の世界観では、人間の日常的な生活の外側にある、それよりももっと大きなものが、人間の生活する世界の方に影響を与えている、のだと思う。
それから異常気象について。話を要約すると次のような感じ。
「昔から異常気象が起こると言われてきたけれど、人間ならそれをどうにかできるんじゃないかと思ってた。けれどそれは違っていて、本当に気候変動が起きてしまった。それに絶望している。けれどいまの子どもは、これから生まれる子どもは、これを「異常気象」とは思わないかもしれない。英題のweatherには「乗り越える」という意味があって、「君となら乗り越えられる」という風に、子どもたちにはこの暗い世界を軽々と乗り越えていってほしい」
「暗い世界」とはっきり言ったかどうかは私の記憶は定かじゃないんだけど、こんな風なことを確かに言ったと思う。そしてそれは、おそらく映画結末の雨が降り続いているということであり、水没した東京のことだ。そういう風になってしまっても、乗り越えていける、と。
これは「秒速5センチメートル」の、「人生には劇的なことは起こらないかもしれないけれど、それでも生きるに値する」というコンセプトに通じてると思う。
「天気の子」の新宿(歌舞伎町)の描写について、かなり暗い面が切り取られている、ダークである、という話があって、私はそれはぜんぜん気づかなかった。「天気の子」で描かれるような新宿の光景を私も知っているので、リアルな新宿を見てるかのように思ってしまった。けれど言われてみればあれはかなりダークだ。
「雲の向こう」で描かれる新宿も、思い返せばけっこう暗かったと思う。ヒロキが下宿していたあのアパートがあるのが新宿の端っこだった。「秒速」では、第3話に、クリスマスの夜に残業で終電を逃して中野坂上の家まで新宿から歩いて帰るところが描かれる。(新宿がダークであること、それに比して代々木が何か神聖で特別な場所であること、これらが重要なのかもしれない。)
世界はかなり暗くて、ダークであるかもしれない、けれどそんな世界の中でも生きていくに値するんだと、それだけの中かがあるんだと、新海監督の作品は伝えてくれている、という風にも感じられる。これも一貫してるんじゃないかと思う。
気象予報士の依田さんは、「天気の子」の雨の描写をかなり褒めていて、その上で、作中で晴れ間が訪れたときのカラッとした爽快感を話していた。
ネタバレ配慮のためそれ以上は掘り下げられていなかったけれども、「天気の子」に感動してしまった場合、見終わった後に迎える晴れた青空には複雑な気持ちが感じられるのではないかと思う。
人柱となった陽菜が、異常気象の中で帆高に「こんな雨、止んでほしいと思う?」と聞く場面がある。陽菜の事情を知らない帆高は、あっけらかんと「うん」と答える。その残酷さ。
たぶんだけど、私たちの中の多くには、晴れた青空は良いものだという前提的な感覚がある。物語の描写としても、「雨」というのは悲しみや困難を示すものであることが多い。そうした雨の後に訪れる晴れ間は、困難の解消、悲しみの乗り越えなのだろう。
けれど「天気の子」はそのような展開にならない。そうした乗り越えは描かない。他の人の感想で、陽菜がいなくなった後に晴れた東京はどこか不気味だと言っていた。そんな晴れは、一番大事なものじゃない。須賀さんが、「大事なものの順番を変えられなくなる」と言っていたのが印象的だ。
雨という困難や悲しみそのものを消して乗り越えるのではなく、その中でそれを乗り越えることを目指す。
でも今回は陽菜と引き換えの晴れ間だったので、それなら陽菜を選ぶ、雨だって構わない(陽菜がいるのだから)という風にも読めてしまう。陽菜が帰ってきて、それでも晴れにする方法があったとしたら、それを帆高たちは選んだだろうか。「君の名は。」はそうした方法を見つけ出せた話なのかもしれない。
あるいは、この映画のメッセージを「帆高は陽菜みたいな子がいたから「乗り越え」られるのかもしれないけど、そういう存在がいない人はどうしたらいいの」と受け取るかもしれない。
英題の「Weathering with you」について、新海監督は「君となら乗り越えられる」という風に言っていた。なぜ「君と」なのだろう。しかもなぜそれは異性(多くは女性)なのだろう。私にはまだその理由が分からないけれども、そこに必然的があることは分かる。そうでなければならないと、私も思う。
最後にもう一つ。
見終わってすぐ書いた感想文で、公開初日のことを書いたのだけれども、あれは間違いだったなと今では思ってる。
公開初日、東京は長く続いていた雨が止み、久しぶりの晴れ間が訪れていた。「天気の子」すげーなと素直に思ってしまったのだけれども、その日に映画を見た人はあの晴れ間をどう思ったのだろう。私があの日を振り返って思うのは、「晴れてもな……」というものだった。
「天気の子」のCMでは、「これから晴れるよ!」という陽菜のセリフが劇的に使われている。晴れた方がいいという前提的な感覚も私は持ち合わせていた。だからこそ、公開初日のあの晴れ間をすごいことだと思ってしまったのだけれども、それは映画を見た後の視点では素直に肯定することができない。
CMでの「これから晴れるよ!」のあの劇的な感じ、あれはやっぱり晴れた方がいいという前提的な感覚に訴えかけるものだと思う。「晴れ」というのをそのレベルで捉えると、あの結末の雨が降り続く東京というのは、そういう素朴に良いと思えるものが決定的に失われた世界だということを意味するように思う。そして「天気の子」が伝えるのは、そういう世界も乗り越えられるということ、そういう世界でも生きるに値するということ、なのではないかと思う。