考察でも何でもなく、ただ思った事を脈絡もなく書き綴ったメモ書きのようなもの。
シンを観ながら考えたこと
生と死
今週で4DXとIMAXの上映が終わると聞き、
もうこれが最後のチャンスだとIMAX版と4DX版をそれぞれもう一度観てきた。
この目に焼き付けたいと、2時間半、この上なく食い入るように観た。
因みに
MX4Dと、4DX2回
4D系を計3回観たんだけど、全部演出違った!
(4DXは水のかかる箇所が違った。量も違った……席の違い??)
シン鑑賞回数としてはトータルで13回目。
初見時には膨大な情報と感情の渦に飲み込まれながら、ただただ感じ取るだけで精一杯だったけれど、
回を重ねる毎に飽きるどころか益々深く沁み入ってくる。
そして、舞台挨拶で前田監督が仰っていた、前半の徹底したリアリズムの描写と、後半のイマジナリー(虚構世界)の描写の対比に、ビジュアル的にもシナリオ的にも唸ってしまう。
第3村のリアリティ徹した描写は、プリヴィズによる実写寄りの画面作りだけの話ではない。
生と死というものがとても丁寧に、誠実に描かれている。
農作物を育て食べる。
排泄をする。
(シンジくんがケンケンハウスに到着した時にトイレの場所を教えるという描写をわざわざ入れる)
大災害を生き延びても事故で呆気なく死ぬ。
救えない命もある。
花を供えて故人を偲ぶ。
新しい命の誕生。
松方さんのところに生まれた命。猫。ペンペンの子孫。
繁殖している。
アヤナミレイ(仮称)もここでヒトとして本当に「生まれた」のだと思う。
ヒトは、生まれた瞬間から死に向かって不可逆的に進行する存在。
トウジ、ケンケン、ヒカリをはじめ第3村の住人達やアスカやアヤナミの優しさ(荒っぽかったりぎこちなかったりするものの)に、だいぶ救われるけれど、第3村は決してユートピアとして描かれているわけではない。
人の営みの尊さも、現実の厳しさも、どちらも画面からひしひしと伝わってくる。
トウジは所詮「医者の真似事」をしているに過ぎず、第3村には本物の医者はいない。
(本物の医療従事者はヴンダーの船員になったのだろうか…サクラちゃんも無免許のような気がする…)
村のインフラを整備出来る人材もいない。
(本来働き盛りの若い年代や男性の殆ど姿が無いのは、ヴィレクルーとして従事しているからなのだろうか…)
食料は配給制。
梅干しと自家製お酒はとっておきの嗜好品。
お風呂は30分刻みの班ごと男女入れ替え制。
服は「ニアサー以前から残されたもの」しか無いようで、服飾産業は消滅していそう…。
ケンケン言う通り「いつまでもつか分からない」ギリギリの状態。
それでも、懸命に、逞しく、日々の中にちいさな幸せを見つけながら「じたばたと生きる」姿に胸が打たれる。
このリアルな「生」の描写があるからこそ、後半のイマジナリーの中の、つまり虚構世界の中における、フラットな認識としての「生と死」が際立って見えてくる。
脳みそが吹き飛んでもゲンドウは死なない。
無調整故消えたアヤナミの身体。
綾波シリーズ。
式波シリーズ。
カヲルくんの死体(魂のうつわ)は再生される。
生命の円環。
冬月さんはぎりぎりリリンだったの?
アヤナミが消えて、ゲンドウと「同じ喪失を味わった」シンジくんは、泣き腫らした目をしながら、第3村を出る際に立ち直っていた。
(リアリティの中で立ち直っていた)
この時点で、ユイさんの死を受け入れられずイマジナリーの中に縋ったゲンドウを越えていたということ。
そして、拒絶ではなく対話をしようと自ら相手に歩み寄り、相補性のある世界を望むシンジくん。
なんて心の大きな少年なんだ…。
本当に大人になったんだなぁと感慨深いと同時に私もすこし寂しい…。
その過程をカヲルくんの魂はずっと見守っていたのかな…。
世界が元どおりになっても、本当に死んだ人は生き返らない。
それが生命のシステムの約束事だから。
死を受け入れながら生きていく。
もう世界はループしない。
すべてのキャラクターに対して、
すべての生命に対して、
とてもとても誠実な作品だと心から思う。
庵野監督が、ご自身に、作品に、世界に対して誠実に向き合った、ということなんだと思う。
並大抵のことではない。
こんなにも希望に満ちたエンディングをエヴァから受け取れるとは正直思っていなかった。
本当にありがとうございます。
きっと、繰り返し一生観続けていくと思う。
そういう作品に出会えたことを心から嬉しく思う。