ほぼほぼ自分用
これまでのふせったーまとめ更新
これをもとにちゃんとした感想記事を書くので、共感した点やツッコミどころなどあったら是非。
ただコピペしただけなので同じことも言ってます
父子の絆じゃなくて、綺麗な「自我の獲得」の話だった
これまでいたコミュニティに疑問を持ち、新たなコミュニティと自分と同じ種族の新たな仲間(トモダチ)の2つで迷い、そして2つのコミュニティに属すことができるものとして、果たして自分はどちらに自我を置くのか……という思春期の葛藤 そしてそれを見る親の構図(ちなみに自分は思春期の葛藤側で見ちゃいました)だからザルード群れは家族、人間社会は学校などの社会……と置き換えても良い(極論か)
それと同様に、排他的なグループに属すザルードとゼッドという対比 片方は過ちを認め、片方は仲間すら見捨てた それは「コミュニティを選ぶ」という葛藤の有無であり、ザルードはそれを親になることで見つけることができた 赤ん坊よりもサンプルを取る(とモリブデン夫妻にすら思われていた)ゼッドには絶対に見つからない答え
ココは最終的にポケモンと同じ「力」「証」を手に入れたが、自我を決定するものはそれではなく、自分の葛藤である……がゆえの旅立ちエンドは説得力がある
ココ、よく考えたら「異文化との出会い」「他者理解」「異端者と土着信仰」みたいな話をレイヤー1段階下げて「家族」にまで落とし込むのは、サンムーンのそれとまったく同じなんだなあ、と今更思いました そう考えると自身の家族の在り方があやふやなサトシは便利だなあ 入る側になってもいいし迎え入れる側になってもいいみたいな
迎え入れる側(サトシに対してだったりUBに対してだったり)の変化と葛藤を描くのがサンムーンで、入っていく側の変化と葛藤を描くのがココ……というのは少し一般化し過ぎか
ふしぎなふしぎないきもの、実は「(自分は)どこにいてもいつでも俺は君の父ちゃん(だと謳っていいん)だ」という、父親失格だと思っていた自分へのアンサー曲だったのマジでヤバいんですよね 完全にやられた
ヒーローじゃないし、スーパースターでも無い、なんなら種族だって違うし血なんて当然通ってなくったって、それでも「父親なら父親である」というのはそりゃめちゃめちゃ広範囲に刺さるよなあ(父親でなくても刺さる)
そういう意味ではエンディングがちゃんとエンディングで良かったな 素敵な人に出会えますように……
この話の根本にあるのは他者理解である で、ココは自分のいるコミュニティ(ザルードの掟)に疑問を感じ、結果として自分がポケモンか人間か?というところで迷う これは他者(かつ自分が獲得しようとしているモノに最も近しい人)に出会ったからである
一方で親と子もまた他者である 子が悩むように親も悩む(自分が父親というアイデンティティを獲得していいのかどうか) ザルードは本当の父親ではないからじゃないかと悩むが、実はそうではない 子が他者だからである
結局のところ、親と子も他者同士でしかないが、親子という関係にはそれを乗り越えられるほどの力がある しかしそれには当然ながら「自分が父親である」ことを自覚しなければいけない(「俺は君の父ちゃんだ」) なぜなら他者(他種族)との交流は、自分の種族を自覚して初めて成り立つからである
そうすることで初めて他者との友好な和解をすることができる ザルードたちはそれに気づき、森の仲間たちに頭を下げた(「きこえるか多くの足音が」) ゼッドはそれに気づかず、仲間を見捨てた ゼッドは自分だけが正しいと信じていたが、それは他者との関係を育もうとするにあたって必ず起こる「自我の揺らぎ」を経験していないからである
他者を理解し、よりよい関係を築くためには、まず自分自身について葛藤をしなければいけない(その最小単位が親子であり、最高単位が種族の違い(人間とポケモン)なのかもしれない)
この映画をものすごく一般化すると「他者理解」なんだけど、もっと素直なメッセージにすると当然「親は子のことを思っている」になる。じゃあなんで思ってるの?っていうのの答えとして持ってきたのが「血も種族も生まれも違うザルードとココ」という設定で、言葉が通じなくてもわかり合えるっていうのの答えとして持ってきたのが「サトシとココ」なんだと思う
この映画のサトシはみん物と同じく導く者という概念(メシアサトシ)なんだけど、今回何を導いたかと言うと「人間かポケモンかで迷っていたココに、父親と言う概念は種族が違えど同じものであることを教えた」ということになるのかなあと思う(もちろん同じ種族と言う存在そのものがそうなんだけど)
最後、ココはポケモンの力に目覚めたような描写があるが、最終的にココは旅に出る決意をする これは自分のアイデンティティがどちらに属すかを力や証ではなく自分の心理と葛藤に任せたからであり、ザルードは父であるからそれを見送る
ここに、ザルードが「母」ではなくて「父」でなければいけない理由があると思う ザルードは自分が何者か?自分は本当に父親でいいのか?ということに迷う 故に、子を一人の「他者として」送り出し、出迎えることが可能になる
サトシのママが冒頭と最後に出るのもそれで、これは父たるザルードとの対比なんだと思う(でもまだちょっと考察が弱いな) 最後サトシがママに電話を掛けるのも対比的なんだけどちょっと思いつかない 「いつでも帰れる場所」みたいな意味合いもあるのかもしれない いや、ここはあんまり深く考えずにもう「親子」でいいのかなー
この映画のどこがよかったのか?っていうことを言おうとすると、他者理解っていう概念を「親子」と「人間とポケモン」というわかりやすいレイヤーに落としてきたところだと思う
「父親と子は所詮他者同士である」というのはわかってはいたんだけど、その両方の葛藤をきっちり描いてくれたからかなあ 同時に、ポケモンか人間か……という葛藤もまた思春期によくある「自分は何者なのか」の視覚化のようで本当に自分のことかのようだった それに「父親がいる」というアンサーが上乗せされるからなのかなあ
一見すると父親ってすごい憧れというか自分より上の人間なんだけど、そうではなくて父親も他者であるという視点が持てるというところもある 父親の悩みが「人間とポケモン」に落とし込まれることでより鮮明化したとでも言えば良いのだろうか?
そしてそれの解答として、「種族が違っても言葉が違っても通じ合うことができる」「自我の在り処を見つけ、他者を理解し、協力社会を築いていく(大仰な言い方だが要は他人と付き合うということ)」が、「独りよがりで他者のことを何も考えない邪悪」に打ち勝つのは、勧善懲悪モノとして単純に面白いのだろう。そっちのほうが綺麗だし。
あ、あとは「いくら自我に悩んでも、親はそれを無条件に受け入れてくれるし、帰る場所がある」というアンサーもあるかもしれない(あえて父親とは断定しないが)
そういえば、この「他者と協力し」というところはまさしく前作のポケモンパワーだなあとも思う ポケモンパワーも他者信頼の話だった それが今度は自分たちのコミュニティあるいは葛藤に適用されることが気持ちよいのかもしれない
ココが初めてサトシの前で人間の言葉をしゃべった時に、メタの壁を破られたようでドキドキした気持ちの正体
ちょっと言うのが難しいけど、例えば猫とか犬みたいな獣が「その鳴き声のまま」人間の言葉をしゃべるようになる、というのを想像するのはほぼ不可能に近いと思う、体の仕組みが当然違うので(語尾がニャになるとかそういうデフォルメではないよ)。
でもアニポケに出てくるポケモンは、すごくメタな話、人間が声を当てているのだから、当然ながら声帯は人間のものと同一である(ということにならざるを得ない)。しかしだからこそ、「ポケモンの言葉からそのまま人間の言葉へ」がシームレスに移行することができる
ココがピカチュウと「ザルルドルザ」で喋りながら「サトシ」と発音するこの奇妙なグラデーションはなかなかできるものではないと思う
前例が無いわけでは無くて、映画マナフィの「サヨナラ」とか、そもそもロケット団のニャースがそういう存在(とはいえ彼が鳴き声で話すシーンはほとんど無いが)なのだが、これは多分ココが人間だからだろう
一瞬ありふれた表現なのに、人間であるということだけで「え、そういう見せ方が可能なのか?いいのか?」と何か見てはいけないものを見てしまったかのような謎の背徳感があった すごくドキドキする
俺も旅に出る!エンドってボルケニオンか(既視感あったんだけど思い出せなかった)
森の修繕らへんから「あれ!?セレビィは!!?」「ねえセレビィ忘れてない!?!?!」「セレビィいつ出るんだーーーー!!!!」ってずっとソワソワしてたのが本音なので、このへん2回目のほうが集中できそう(修繕のくだりで出ると思っていたので、これは素直に敗北)(森が治るとはそんなに安直な話ではない……ところまで見透かされている!)
セレビィ、みん物のルギアみたいなもんなんだろうなーとは思ってたけど、それ以上に役割が極端になっててすごかった
最も、そんなものをこういう宣伝材料に使う(色違いである意味は無いし)のは賛否あるかもしれないけど、セレビィでなくてはならない理由というのは色々と明確なのがルギアとの相違点で良いですね まあこれは森ってだけで出せるのが偉すぎるとも言うが
これは予めゾロアークを見てたから思えることなんですけど、セレビィが「姿を消すことで障害を表現し、帰ってくることでそれが解消された証」だから作劇的に使いやすいというのはありますよね(ゾロアーク見直してよかった)新無印セレビィ回もそんな使い方だし
ココ黒幕、ポケモン映画特有の謎技術巨大ハイテクマシーン&謎空中浮遊バイクだから大好きなんだけど、言ってしまえばただの重機だからな……(アメリカの農家さんとか持ってそう)
「ただいまとおかえり」について……「ふしぎな~」がココとザルードのエンディング曲で、そのあとに流れるこれが作品のエンディング曲、というのはそうなんだけど、それだけじゃなくて、この後でサトシママが出てくるように、「今回は父親視点だったんだけど母親もそう思ってるよ」的な、親概念すべてをひっくるめてのエンディングになってるんだと捉えた
何なら、「親子コンテンツ」を一番客観的に見ているのがこの歌で、「ふしぎな~は直接的でかっこつけすぎだけど、まあこれぐらいのことなら子供のほうも「思われてるな」と思ったことはあるんじゃない?」みたいなそういうようにも聞こえる(ちょっと考えすぎかな)
ココが親子モノだというところはそうなんだけど、それよりも自分はココの「思春期の自我の揺らぎ」みたいなのが刺さった感じ
まあその上で「どんなに自我が揺らいでも親はずっと君のことを見ているよ」的なメッセージでもあるから、全部親子モノの前座と言われればそうなのだけど。
強いて言うなら、思春期の他者認識の話と重ね合わせて、「父も子も所詮種族すら違う他者である」と突き放したまま帰ってこないのが好き(他の親子モノに詳しいわけでは無いので、これも王道だとは思うんですが)。
この映画はどうしてもココ/ザルード視点で見てしまってサトシは舞台装置/狂言回しのような印象を受けてしまうけど、やはり主人公で、サトシのような行動/思考をすることが他人の他者認識を助け世界を広げる、というメッセージは十分あると思う
親子モノじゃなくて思春期葛藤モノ(エヴァみたいな構造)として見たときの話ね。
とはいえこれはメシアサトシ概念全部に言えるのでこの映画に限った話では無いんですが。