新海誠監督の最新作『天気の子』を観ての感想です。
今までの新海監督作品の中で1番衝撃を受けました。凄かった。
ここまで現実を突きつけるアニメ作品が他にあるだろうか
一昨日の公開日、仕事終えるや否やすぐさまバルト9に向かいました。
観劇後に感じたことを書き連ねます。
ネタバレいっぱいあります。
ヒナちゃんの漢字がパッと浮かばなかったのでカタカナになってます。
名前とかセリフとか間違ってるかも。
小説版を昨日買いましたが、読む前にこの感想を書きます。映画で感じたことを、まず書きたいんです。
書きたいことを書きました。
ここまで現実を突きつけるアニメ作品が他にあるだろうか。
この世界は狂ってるんだということを認識した上で、世界が救われる選択肢を潰して世界では無く自分を取る。
だって世界を救う価値よりも自分の世界を掴む価値の方が重要だからだ。
ということを主人公が感じ取り、自分のエゴを選択する終盤に大きな衝撃を受けた。
『君の名は。』の次の作品で、広告を出しまくって、スポンサーをバンバンアニメ内に出して、商業ベースの色を中盤まで引っ張っていた中で、この結末を持ってきた事実に驚愕を隠せなかった。
最高だった。
自己犠牲型ヒロインが概念となって世界が続いていく……のではなく、こんな世界どう続いたって狂ったまんまなんだから自分がアクションしてより狂ったってどうにかなるんだ。
というのは本当に言葉を失うレベルで衝撃だった。
だってこんなの予想することは出来ても「本当に予想はしない」じゃないか。
一歩踏み違えたら批判の嵐になるような思想を、この規模と素晴らしいクオリティで体現してきた天気の子は、創作の歴史の転換点にさえなるのではないか。
こういう思想を抱いたことはあるけれど、あまりにも破滅的で表に出すことは基本なかった。
近年の作品傾向的に、流れだけはゼロ年代ベースなのに対極に位置するような思想やその一つ下の段階の感覚の領域が主に受け入れられていたからだ。
自分は、『天気の子』が昨今のキャラ文芸の脈動を粉々にするようなものになる。と予想していた。
結果は予想以上どころかそのはるか先に辿り着いてて言葉を失ってしまった。
ゼロ年代に果てしなく試行を重ねて、現実と見比べて編み出されてきた概念のかたまりが、この映画にはある。
こんなに現実を突きつける作品がこの規模で繰り広げられたことにより、小手先でどうにかしてきた作品群は全てただのフィクションにすらならなくなってしまったのではないか。
おそらく今後青春もののキャラ文芸は如何に言葉遊びが上手いか否か、ギミックが優れているか、が主な評価基軸になってくる予感がする。
そう感じてしまうくらい、思想面での回答を天気の子はもたらしてしまった。
凄かった。
知のオープンソースなんてものじゃない。この物語は金銭的に苦しい日本の少年少女、そこそこ恵まれた少年少女、右肩下がりの社会に飛び込まざるを得ない若者、やるせなさを抱え続ける大人、人を虐げながらも生きている大人、世界を静観しながらも光を羨む大人、伝統を受け継ぐ年長者、自然の摂理を受け入れている年長者、様々な人間が描かれている。
そして「天気の子(ヒナ)」以外は皆、なによりも個人(自身)が価値の最上位にある。
この世を生きるには、もはやこれしか残されていないのかもしれない。
島暮らしの主人公、帆高は光の当たる場所に行きたいと願った。
手探りで東京へ辿り着き、影ばかりの東京で、光を生み出す力を持つヒナに出会う。
光を生み出す才に恵まれたヒナは、その力を自らが生きていくためのものとして使用していく。
その中で、自分の力が誰かの人を笑顔にすることを知る。満たされていく。
弟とギリギリの暮らしを行なっていたヒナにとって、それはわかりやすいほどに幸せであった。満たされる心。しかしその反面、確実に心も体も蝕まれていた。
この一連の晴れ女としての活動を見ている時、なんとなく他人からの承認、Instagramや実況をはじめとしたインターネット上で評価されることでの喜びと、承認欲求に左右される社会を感じていた。
満たされる心、お金も入る、でも何故か社会はむしろ右下がりのように感じる。
そんな現代社会を中盤までで投影させていたように見えた。
幸せなのに、幸せじゃない(人柱)なんて、と苦しむヒナ。
帆高は言う「ヒナと一緒に居たい」と。
そして同時に「晴れてる方が良い(そりゃ世界は正常な方が良い)」と。
ならばと彼女は空に運ばれる。
ヒナが消えた理由は世界を正常にしたからだと気付く帆高。
帆高は警察から逃げだし、この世界の社会からの評価を恐れず、ただヒナとの未来を掴み取るために走る。
警察から追いかけられる最中、大衆から冷ややかな言葉を投げられる。
そんな中助力してくれたのは、世界に嫌気がさしていて、なおかつ非現実的なことを信じることの出来る夏美だった。
この演出で感じたのは、「世界は正常になっても、ヒナが世界を救った事実は残らず。ほとんどの人々は幻想を信じず、相変わらず冷笑的であるということもまた何も変わっていない」
ということであった。
世界が「良く」なるなんてことはあり得るのだろうか。
ヒナと似た感覚を与えた少女のことを、上映中に思い出していた。
その少女は「イリヤの空、UFOの夏」の伊里野加奈。
イリヤの空で、伊里野は主人公である少年ーー浅羽の願い(ずっと一緒にいたい)を叶えるために浅羽の願いとは真逆の行動(浅羽が生きていけるように世界を救いにいく)をする。
伊里野のいなくなった世界で、浅羽は生きていく。
伊里野と浅羽の夏は確かにあった。そして「この世界」はいつも通り進んでいく。
天気の子はこの構図とスタートとゴールが同じなのである。
先天性の才を持ったヒロインに自信を付けて、世界の崩壊を抑え、ヒロインは人柱となり概念となるのまではイリヤの空と同じである。
天気の子はさらにヒロインの奪還を試みる。ヒロインを奪還するための代償として社会的な立場を喪失することになる。
世界を支えるためのヒロインを奪還するのだから当然世界は狂う。
狂う。けれど、世界はとっくに狂ってたんだ。
とっくに狂っていることを受け入れているのが、天気の子だ。
とっくに狂っていた世界が狂ったまま続いていく。
狂った世界で、狂った基準での社会的なものを守るために幻想を捨てるよりも、社会的なものを放棄してでも掴み取ろうじゃないか。
愛に出来ることはまだあるよ。
世界は続いていく。いつも通りに狂ったまま。
どんな形になっても世界は続いていくのだ。
僕が求めるものはヒナとの暮らし。光のある暮らし。
ヒナが消えた世界は、眩しすぎるほどに明るい。まるで作られたように、涙が出てしまうほどに。
イリヤの空に出てくる榎本みたいな、カッコ悪くてカッコ良い大人は、今の世の中にいないのだ。
いるのは須賀のようなカッコ悪い大人と、自分の外側の世界の大人。
幻想を信じきれない大人。
榎本と須賀の違いはそこである。
榎本は「(非現実的なことは)確かにある」と言うのだ。
その上で、自分の生きる道を進む。
だから浅羽の前に立ちはだかる。
須賀は幻想を信じきれていない。
「なあ、社会に適応しようぜ」と帆高の前に立ちはだかる。
彼にとって1番大切なものは家族。
帆高を救った動機はなんだ。
彼は「お前ら(警察)ごときが帆高に触れるな」と言った。
それは、彼が帆高に対して自身の過去やありたい姿を幻視していたからではないか。
ムーに記事を送りつけるような男が、かつて不思議なことに興味がないはずないのだ。
こう言うとまさに観客である自分による幻視とも言えてしまうのだが、須賀が帆高を救ったのは「幻想を信じた」のではなく「自分の奥底にある想いが否定された」ように感じたからなのではないか。
帆高が社会に否定されてでも望みを掴み取った瞬間、東京は大洪水に遭う。
その時の須賀の顔は、思わずこちらが微笑んでしまうほどのものであった。
「確かにあったのだ」と思えることは、こういうことなのだ。
狂った世界に戻ってきた主人公。
高校卒業までの地元暮らしを終え、東京に再びやってくる。
須賀は言うのだ「バァカ。世界なんて元から狂ってるんだ」と。
世界はもはやいつも通りを超えて、狂ったものとなっていた。
きっと、気付いてなかっただけで、とっくに狂っていたのかもしれない。
その中で生きるしかないのだ。
そんな、頑張って生きようというのは今を肯定し、無責任とも言える行いを推奨するとも取れる。
けれど、幻想は現代にもあるのだ。だって世界は「いつも通り」なんだからとも取れるのである。
惜しむらくは、ヒナのみが「先天的な人柱」という設定となり、対になる形を乱立させることで多様性を描いたことから導かれる「出来るということへのハードルの高さ」である。
誰もが「天気の子」だろうか。
自分はまだ「僕は天気の子」だ。と言うことが出来ない。
そう考えてしまうのは、ヒナが想像以上に主役だったからである。
自己犠牲型主人公のような行動力の速さと、「キミとボク」の構図のキミたる特異性を併せ持った彼女は、とても強い意思を持つ人間だったからである。
ただただ、眩しいのだ。
いわゆるセカイ系作品に対する批判に関すること、そして少年少女の無力さ、これ以上ないほどに現実を突きつけ、しかし、光を浴びる方法を掲示した本作はひたすらに力強いものであった。
確かに感じるものがあった。少なくとも自分はそう感じた。
主人公のモノローグ、長々と続く現代の自己承認の在り方、華やかさの裏にある東京という日常。地元(今)に満足出来ず足掻き続ける少年の夏。
前半の夢見がちでふわふわとしたやり取りから一転し、後半はその夢見がちさがキモになっていた。
歌舞伎町、マクドナルド、池袋のホテル街、東京の東側の景色、人々が空を見上げる景色。
若者だけで無く、個人の無力さ。
冷笑する人々、我関せずと触れない人々、大切なのは自分だということ。
自分のために生きること。
それらが世界を息苦しくしていることを示しつつ、それでも自分の思うことをやろうというメッセージ。
育った環境を振り向かず、グレーを超えた領域のことをし、嘲笑われ、世界のルールが追ってきて、、、限界ギリギリを迎えてようやく掴み取る。
「こんな世界でも、まだ諦めなければ掴み取れる」と受け取るか、「掴み取ることなんて出来ないと言っているのと同義だ」と受け取るかは、人それぞれかもしれない。
細田監督の作品で感じた血筋や伝統を用いるのとは違う手法の中で、新海監督は凄まじいモノを送り出したのではないだろうか。
僕に出来ることはまだあるよ。
奇しくも、自分はエンドロール中にコンレボ最終回を思い出していた。
世界が平穏を取り戻していき、人々が幻想を忘れていくこの回のタイトルは「Last Song 君はまだ歌えるか」
今は誰もが幻想を忘れてしまっていても、いつか、人々の声に応えてあの人は帰ってくる。
愛に出来ることはまだあるかい。
僕に出来ることはまだあるかい。
なんて力強いんだろう。
この映画が終わった時、ヒナは概念じゃない。
帆高の隣にいる。
ヒナは今も祈っていた。制服を着て、この狂った世界で、世界がより良くなる(晴れる)ように祈っていた。
この時、自分は胸がいっぱいになった。
めちゃくちゃな世界のままでも、穂高はこの子がいる世界を望んだのだ。
穂高は、ラストシーンで改めてヒナを救って世界を続けさせたことについて「間違ってなかった」と確信している。
だって、こんなめちゃくちゃな世の中でも、光を求めることの出来る子がいるのだから。
すぐ隣にいるのだから。
自分は世界に絶望していながらも、世界に希望を抱いている。
そんな、矛盾した想いの比喩こそが、狂った世界で生きながらも隣にヒナがいる穂高という関係図を生み出しているのではないか、というのは考えすぎだろうか、
愛に出来ることはまだあるかい。
情報初出時以来、この曲が常に脳裏に焼き付いていた。
外を気にしなければ
2、3年経てば、生きていける。
非日常には、慣れる。だって、とっくに慣れてる。
想いを抱いて、勇気を持って飛び立とう。
概念になって君に想いを馳せるよりも、となりに君がいてほしい。
ところで、今ふと思い出したのだが、
何故物語冒頭、穂高くんは雷雨の看板で「イヤッホゥ」と喜び叫んだのだろう。
純粋な、旅に出る喜びだろうか。
少年は青年になる。
新海監督、天気の子という素晴らしい作品を世に送り出してくれて、ありがとうございました。