とおるとノートと声のはなし。※二次、捏造あり
人間は声から忘れるらしい。
遠流の手元には、彼が書き残したであろうノートがあった。彼らしく美味しいスイーツの話をつらつら書いているページもあれば、何かの走り書きのようなもの(焦っていたのかはわからないが、残念ながら遠流には読めないくらい崩されていた)もあり、そして最後のページには手紙と称したもの――まるで遺書であるかのような、そんな文章が残されていた。
遠流がそのノートを手にしたときから少なくない頻度で読み返してきたそれは表紙やページの隅が擦り切れそうになっていて、最初のほうは文字までだんだんと掠れてしまいそうに思えた。時折、そのノートを片手に今とは違うあの日々のことを思い出す。いや、思い出すというよりは夢を見るというほうが近いかもしれない。確かに共に過ごした記憶がまるで昨日のことのように手にとってわかるのに、現実にはこのノートを除いて何一つ残っていないのだから。ここ浪磯で馬鹿みたいに遊んでみたり、アイドルなんてやらずに高校生活を満喫していたり、今の人生とは違ってしまったけれどきっとそうだったんだろうなと容易に想像できてしまうような、そんな紙一重の世界のことを。
夢の中の彼は舞奏に対して真摯で、常々三言には及ばないと本人は言っていたけれど遠流からすれば三言に劣らず美しいものだったと思う。ただ、舞奏がひとたび終われば買い食いしたり甘いものに舌鼓を打っていたりとその辺にいるような高校生となんら変わりはなかった。その点を踏まえると、三言よりよっぽど人間らしいとも言えるかもしれない。
共に通っていた学校では、いつも寝てばかりの遠流やたまにしか登校しない比鷺に対してかいがいしく世話を焼いていた。こちらとしては起こしてくれとか弁当を一緒に食べてくれなんて一言も言っていないのに、まるで頼まれたからやってあげているんだぞというような誇らしげな顔とともに「感謝してよね!」と言っている姿は日常茶飯事の光景だった。やる気のない遠流や比鷺とは違っていろんなことに対して真面目で、でもすべてを全力で楽しむような彼は、思い返すほどカミに愛されるのも当然のように思えた。
そんな日常の中で彼と交わした言葉はたくさんあったけれど、今はできないと思うと悲しい。
「遠流はさあ、将来やりたいこととかないの?」
「特にないな」
「もう少し真面目に考えてよ!」
「そういうの疲れるし嫌だ」
「ああ言えばこう言うんだから! でもさ、本当にやりたいこととかないんだったら、このあいだのスカウトとかも真剣に考えてみたら? 僕はアイドルとか結構遠流に向いてると思うんだよね。ほら、だって遠流は顔がいいんだし」
そういった何気ないやりとりだって覚えているというのに。覚えているからこそ、彼が向いているなんて言ったアイドルにもなったし、真面目に過ごそうと意識してきた。きっと彼が見たら腹を抱えて笑うだろうけど。
そんなふうに、彼が言った言葉をひとつひとつ拾い上げては現実に移していくのが、ある意味で贖罪のようにすら思っていた。
だけどだんだんと日々が過ぎていくごとに、彼の声をふとした瞬間に思い出せなくなることが増えてきた。ノートの筆跡はここにあるし、彼が胸を張る表情や美しく舞う瞬間だってすぐに思い出せる。言っていた言葉の中身だって記憶にある。なのにそのときどんな声色で笑っていたのか、どんなリズムで歌っていたかということだけが、零れ落ちてしまったかのように思い出せなくなる。
――人間は、声から忘れるらしい。
今はまだ少し考えれば蘇る声が、そのうち記憶を絞っても出てこなくなってしまいそうで怖い。だからこそ、一日でも早くカミにこの願いを叶えてもらわないととても困るのだ。そのためには昔からカミのために舞奏を捧げるかのように鍛錬を積む三言と舞奏衆を組むのが一番の近道だろうと思ったし、それに比鷺だって化身持ちだ。舞奏衆を二人と組んで大祝宴を目指すことはそう難しいことではなかった。
ただ、三言と比鷺の二人にはもしノートを見せても彼のことを思い出さなかったらと思うと怖くて言えなかった。二人を騙すようなかたちにはなってしまうけれど、彼の声を完全に忘れてしまう前に大祝宴へと行くにはそれが手っ取り早いと思ったのだ。
「僕たちは、三人ではなくて、四人だった」
そう言ったところで、二人が彼のことを覚えていなかったら急に頭がおかしくなったとか忙しすぎて幽霊でも見えるようになったのかと笑われておしまいだ。いや、三言は純粋に心配してくれるかもしれないが。
今はただ、力のある覡である三言と、九条家の一員である比鷺、そしてアイドルをしていたことでそれなりに実力はついたであろう遠流という三人で大祝宴を目指すという目標に向かって全力を尽くすだけだ。自分たちに近しい人が消えたなんてことは、信じてくれなくても精神を揺らがせるだけなのだから、今は覚えているのは遠流だけでいい。だから、はやく。
はやく、彼の声を完全に忘れてしまう前に、彼を取り戻さなくては。