相沢沙呼『マツリカ・マトリョシカ』のホワイダニット……犯人の動機やその在り方と、それを受けての探偵の取った判断と行動について。
小峰元、東野圭吾の某作品を対照にも置きつつ少し。
※ネタバレ配慮で以下リンク先。
『マツリカ・マトリョシカ』犯人の動機とその為に取った手段、巻き込んだ相手たち、起き得た状況などを鑑みて。
読者としてあるいは「とても許せない」とか、それへの探偵の対応……自分の抱えるものと重ねもしいっそある所までは共感までも寄せ、深刻な被害は未然に防ぎ得もした結果から、手打ちにしたこと。その共感や判断、始末の付け方に納得のいかない向きもあるのかもしれないな、とぼんやりと思いはした。
なお、「では、お前個人の感想はどうなんだ?」と問われれば。
まず、探偵役・柴山祐希についてはほぼ全面的に共感、なんならそれでいいと思うよ、いいんだよ、と言ってやりたくすらなってしまう。
彼ほどには痛切・切実極まる動機・トラウマは自分の中にはないから、ある種遠慮として「ほぼ」全面的にと書いたけど。
本当はむしろ、全面的に賛同したい。
続いて、犯人についてはどうか。
正論を言えば、彼女が認めて欲しいと、もっと、少しでも……過去よりも今よりももっと、自身を見て欲しいと願い続けたのは作中の現在の場に最後まで姿を現すことはなかったただ一人なのだから、その犯行は突き詰めて言ってしまえば、八つ当たりであるとすら言えもするかと思えるし。
当の相手が望むとは限らない、むしろ、もし聞かされでもすれば望んだりなどしなかったのではと思えなくはある所業について、肯定的に捉えたり共感を寄せたりするのは躊躇われるべきところかとは思う。
ただ、それこそ今の年齢の自分ならとにかく。
あの犯人の年頃で、そのような立場に置かれて……自分にとって相手がそんなにも輝かしく大切なのに、相手にとってはそうではないなどと気づいてしまったなら。その上で、そんな相手が実に不当な目に遭い、不当なままに去っていったと思えるなら。
そんな想像をしてしまうなら。
そうでもせずにはいられなかった、その上で帯に引かれたあの一言を口にした、その思いはどうしても無下に斬って捨てることはできないと思えてしまう。
ここで例えばそうした年齢の、それぞれの作品が描かれた「その頃/その時代」において「その頃/その時代」ならではの犯人の動機と、それを受けての探偵役の反応として。
二つの有名作品……小峰元のあの作品(1973年刊行)と、それに強い影響を受けたと公言もされている東野圭吾のデビュー作(1985年刊行)を振り返りつつ、比べもするならば。
暴走した若い純粋さについて、物語も作者もそれが汚れずにはいられないものであることを感傷を込め悼んでいる感が強く……率直に言って、ちょっと「たまらないな、とてもそういう風には自分は見れないし思えないな」と思わずにはいられなかった小峰元さんのそれや。
若さの歪んだ魅力も描きつつ、その傲慢さ、身勝手さへの批判的な視点もしっかり入れ込んである……「あの頃ぼくらも彼らもアホでした」……「あの頃」というのはそういうものであり、肯定は到底できないし恐ろしいものだが、そういうものなので仕方なくもある……といった姿勢を(勝手に)感じさせられる、東野圭吾さんのデビュー作。
その二作と、ホワイダニットの面から相沢沙呼『マツリカ・マトリョシカ』(2017年刊行)とを並べ置いて眺めるならば。
個人的には圧倒的な好感と……あえて言うならば共感をその犯人に、そしてそれよりもなお強く、探偵役の彼に寄せることになる。
なお、ここで。
故・小峰元さんは1921年生まれ。
東野圭吾さんは1958年生まれ。
相沢沙呼さんは1983年生まれ。
勿論、個人の性向の差はそれ以上に大きいだろうとは思えつつ。
作者との世代の近さがそのまま、好感や共感の温度差に繋がっている観もすこし、あったりもする。
ならば、例えば2000年生まれとかそれ以降に属する読者にとってはどうなのだろうか。
そうした世代に属する読者は小峰元さんのあの作品を、東野圭吾さんのデビュー作を、相沢沙呼さんの『マツリカ・マトリョシカ』を。
それらの犯人と探偵たちを、どのような目で、どのような好感・共感、嫌悪・忌避といった温度で受け止めるのだろうか。
そんなことが少し、気になりもした。
勿論、ある世代に属すれば感想は皆同様、などということは有り得ない。
自分の感想はなによりもまず「自分個人の感想」であり、「自分の世代を代表する感想」などであるわけでもおよそないだろう。
ただ、それでもその上で、という話ではある。念のため。