ポンポさん見てきた めちゃめちゃ気合入ってて本当に良かったんですけど、(以下3000字)
その気合が入りすぎてる「過剰」のために加点式だと500点で100点満点だと90点、みたいな感じになってしまった(個人の感想ですが...)
いや本当にめちゃめちゃよかったんですよ ポンポさんとジーンくんが綺麗な作画でいきいきと動いてるだけで本当によかったしテンポが良くて隙のないカットも丁寧な演出もよかったしみんな(特にジーンくんとコルベット監督)想像してたまんまの声だし...(開始1分でこれはいい映画化だぞと確信したしナタリーちゃん登場シーンあたりですでに作品にかかる気合いに涙ぐんでいた)(前情報ほぼゼロで見るために予告の類は一切見てなかった)
何よりクランクアップまででほぼ終わりの原作に対して(尺を持たせるため、とまでは言わないけど)「90分」にするために入れられた新規キャラもシーンも複線的に物語を広げつつ原作を壊さないように丁寧に作られているのが感じられてそこは文句とか特に全くないんですよ
漫画ではもっと見たかった『MEISTER』のシーンが沢山見られて、それがジーンくんの現実と有機的に結びつく演出も本当によかったですし(劇場版SHIROBAKOがやりたかったのって要はこういうことですよね)
それでじゃあどこが気になったんだ、というと、どうしても原作厨乙みたいな感想になるんだけど
(以下『ポンポさん』無印(=映画原作)を『1』、『ポンポさん2』を『2』と表記します)
(『ポンポさん』、『ポンポさん2』のネタバレが多分に含まれます)
・『1』→『2』の動線
一瞬だけ出てきたフランちゃんとか、同シーンでミスティアさんが追加シーンの台詞で2への伏線みたいなことしたりとか、そこ自体は原作読んでる人を楽しませる要素としても作品自体の深み(物語内の「続き」を示唆するような)を出すところとしてもよかったと思う
ただそういうことするならこの「1」でタイトル回収をする必要はあったのか? というところの説得力が弱い様に思った(MEISTER、そもそも脚本がポンポさんだし)
全部やりたい、という気持ちは伝わってきたんだけど「2に繋がらないじゃないっすか...」が先に来てしまったんですよね
いやだって「1のおまけ漫画(『MEISTER』では届かなかったこと)」→「2のラスト」っていう流れがあるからこその2な訳で......
・編集って「切る」ものなんですか?
「切る」がやたら強調されていたのが気になった
例えば2ではデ・パルマみたいな編集したりとジーンくんの「世間離れ」した編集センスに焦点が当てられてもいた訳で、翻って1であっても「編集って切っていい感じに短くするのが難しいんですよ」という話ではなくない?
クランクアップ以降の尺を伸ばすために悪戦苦闘したんだろうな、というのはわからなくもないし、原作では2ページで「重厚に「大作感」を出した編集ではなく」と方向転換したところを延々悩むのはそれはそれでジーンくんらしくもあるんですけど、(メタ的な尺のために)悩みすぎたせいでコルベット監督の「その映画を一番見てもらいたい誰かに」っていう台詞が遠のいてしまってるのは本当にもったいないと思った(パーティー時のその台詞のシーンは丁寧に演出されてたから後でも原作通りにフラッシュバックされて使われるのかな~と思ってたら使われずに「僕の話だ!」ということになってしまったので、余計に「誰に見せたいのか」が遠景に行ってしまっているように感じた)
ここで「誰に見せたいものなのか」より「自分のことであること」=「自分の映画であること」が前景に来たことで「追加シーンがどうしても必要」というオリジナル展開になっていくのはそれはそれで自然だしいいんですけど、だとしたら「どうしても追加シーンも入れて(作中に入れるカットを増やしてでも)表現したいものがある」と「どうしても90分に収めます=切ります」が両立しちゃうのは原作(のラスト)がそうだったから以上の理由がなくなりませんか??? というモヤモヤがですね......
「見せたいのはポンポさんだから90分に収めたいし、その上でこの映画は「自分」の映画だから追求するところは追求します」っていうジーンくんの中での二つの連関があんまり見えなくて、後者は原作にないオリジナル要素なわけですが、そのオリジナル要素で物語後半を引き伸ばさざるを得なかった分前者が霞んでしまうところをもっとバランスを取ってほしかった、ということになるのかな
(前者=原作に辻褄を合わせるために?)ひたすらdeleteキーを押して思い出を消していくかのような描写は何が原動力となってそこまでしてるのかわからなくてグロテスクだったし、「とにかく消しまくって終わった!」「完成ってこと?」「わからん......」みたいなのは果たしてジーンくんの編集なのだろうか、という感じがしたんですよね
要は、試みとしてはおそらく、
脚本を書いたポンポさんに対する(厳密には届かない)ラブコールとしてのジーンくんの「90分」の『MEISTER』という原作の構図に対して、この映画においては『MEISTER』がポンポさんの手を離れ「ジーンくんの映画」に換骨奪胎されることで『1』の中で実質的に『2』を変奏する=ポンポさんの「大好き」な作品をジーンくんが与える、という構図になっていたわけです
そう考えると映画内でジーンくんがポンポさんにめちゃめちゃ迷惑かけたり土下座したりするところも『2』の変奏っぽい気がしてきますね
ただ、そうすると『MEISTER』本体も追加の脚本も結局ポンポさんが書いてたりと「ただのファンとして純粋に映画に感動」する(『2』p.55)にならないという点でどうしても『1』で『2』をやるには無理があることがわかります
一つの映画としてはジーンくんの想いは「届いて」終わらないと綺麗に終わった感じがしない、というのもわからなくもないのですが、
・「90分(原作要素)」と「ジーンくんの映画(映画オリジナル要素)」が両立するように描けているか怪しい
・ポンポさんが『MEISTER』制作に与っている以上完全な「ジーンくんの映画」にはなり得ず『2』になるのは難しい
という二つの解決されない点を抱え込んでしまった点で、タイトル回収については「そこまでやっちゃうんですか!?!?」という気持ちが、ラストの「90分」については絶妙なもやもや感が入ってしまった、というお話でした
劇場でラストの「90分ってところですね」でニヤニヤするために見に行ったのに!!!!という気持ち......
映画内では多分しっかり整合性は取れてると思うので、原作を読んでる人と映画を初見で見る人では若干感想が変わってくるんじゃないかという気がします。
致命的な誤読をしている可能性もあるので「ちゃんと解釈をしろ!!!」と誤りを指摘してくれる人がいたらぜひリプライでもDMでもしてもらえれば.....
本当にいい映画化だったとは心から思うので......