「マイティ・ソー」から「エンドゲーム」まで、ソーが何を失ってきたのかについて、cbr.com(http://bit.ly/2vDEpDL)の記事から。
「お前は傲慢で虚栄心の強い、貪欲で冷酷な子供だ!」
このHannah Collins氏による記事「Why Thor's Endgame Transformation Has Polarized Fans(なぜソーの変貌はファンを二極化させたのか)」は、全体を通して素晴らしい示唆に富んでいます。
その中でも、私は特にソーが失ってきたものについて書かれた箇所に目を引かれました。以下に、その箇所を引用として訳出します。
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※改行は訳者の任意。
(ソーの変貌について)笑ったにしろ、苦悶したにしろ、あなたはソーがアドニスのような肉体を取り戻すことをほぼ確信し、(劇場で)カウントダウンをしていた。この種のストーリーラインでは、よくある解決法だ。
しかしながら、この映画はお約束に反する道を選んだ。サラダを食べずとも、魔法で腹の肉を消さずとも、彼はストームブレイカーとムジョルニアを持ち上げて、証明してみせたのだ。肉体的なコンディションは問題ではなく、ソーは正しい心をもって雷光を呼べるのだと。
このことが趣味の悪いギャグシーンに、いくぶんプラスの作用をもたらしたに違いない。というのは、テーマ的に見て、ソーは体重を保持することで、ついに過去の重責から、ただの彼自身へと解放されたのだから。
ソーがMCUに加わった初期に、オーディンは長子ソーの傲慢さをこう言ってなじった。「You are a vain, greedy, cruel boy! お前は虚栄心の強い、貪欲で冷酷な子供だ!」。
以降のソーの旅路における道程は、彼のこれら欠点を脱ぎ捨てていくものだった。
まず、『Thor』では、ハンマーを持たずにアスガルドを追放されて「傲慢 arrogance」を失った。
次に、『Thor: The Dark World』では、王座を辞することで「貪欲 greedy」を失った。
そして、『Thor: Ragnarok 邦題マイティ・ソー バトルロイヤル』では、ロキの罪を放免することによって「冷酷 cruel」を失った。
最後に、『Avengers Endgame』では、もじゃもじゃの髪と不釣り合いな両目、ふくよかな肉体を保持することによって「虚栄心 vain」を失ったのだ。
より相応しいヴァルキリーに王位を譲った後に、ソーはここ千年間で初めて自由になり、どこへなりとも行きたいところへ行ける自分自身を発見する。
これからもオーディンが世界一のパパとされることはないだろうが、彼の混乱した息子のうちの一人は、どうにか最後にある種の心の平安を見つけたのである。
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まず、もし私が「これまでにソーが失ってきたもの」は何かと問われたら、真っ先に彼の家族、オーディンであり、フリッガであり、ロキの名を挙げ、それから、友人たち、恋人、アスガルドの国や人々といった答えが口をついて出るでしょう。これらは、彼の外側から奪われていったものたちです。
ところが、この記事では、ソーの旅路が始まるきっかけとなったオーディンの言葉を基に、彼の内側にあった四つの欠点こそを「失ってきたもの」として挙げてみせたのです。
通常、私をはじめ多くのファンは、ソーが謙虚さ、無私の心、寛容さといった美点を「得た」ことによって、より良いヒーローに成長したのだと考えるのではないでしょうか。無論それも間違いではありません。
しかし、その視点をぐるりと変え、内面の欠点を一つずつ「失ってきた」ことで、ソーはヒーローとなり、成長したことを私に思い出させてくれました。
そして、ついに『エンドゲーム』で、ソーから美しい肉体が剥ぎ取られ、最後の虚栄心を失うにあたって、改めてソーという一個人のありようを問う段階にまで到達したのだという見解は、なかなかに説得力のあるものだと思います。
上記の訳出部分は、記事の中盤部分にあたります。
この記事は、冒頭でMCUが全シリーズを通して描いてきたテーマの一つであるトラウマが初めて身体的な表現にまで踏み込んだことを指摘します。ホークアイのedge lord(中二病)的な外見への変化から、トニー・スタークのやせ衰えた体などがそうです。
ただし、ソーの体重増加だけが笑いをとるために演じられており、そのことがファンの反応を二分していると提示します。
そして、クリス・ヘムズワースが偽物の腹をスクリーンで初めて見せた際に、劇場で起こる笑いと、ビッグ・リボウスキの名や、いくつものジャンクフード名を列挙することで引き起こされる笑いについて言及し、こういったギャグの中に作用する肥満恐怖(嫌悪)症を指摘します。更に、取り外し可能なファットスーツを映画の小道具とすることで、太った体が好ましくない(虐げられた)タイプの肉体として定義されてしまうことに疑問を呈します。
これらを踏まえた上で、訳出箇所があり、それから、中盤部分でソーの神としての肉体性を確認しつつも、コミックスにおける肉体の多様化といった問題に触れていきます。
私自身としては、ソーが現時点での己の肉体を受容することと、今後それを保持することによって自己受容の証明となるかについては、また別の問題だと考えますが―将来的にソーが体を鍛え直したとしても、それが『エンドゲーム』での彼の自己受容を否定するものではないでしょう―。
この記事は、エンドゲームでのソーの描き方の問題点、そして、なぜそれが必要だったのかを考える際に、とてもよく整理されており、大変参考になりました。お勧めの一本だと思います。
「Why Thor's Endgame Transformation Has Polarized Fans(なぜソーの変貌はファンを二極化させたのか)」
https://www.cbr.com/thor-avengers-endgame-weight-fan-reaction/