Endgame, 好きなところもたくさんある。感服するところももちろんたくさんある。Endgameが大好きだ、素晴らしいっていう方の感想もとても楽しく拝読してる。でも私はこの作品に"思いやり"を感じなかった
観ている途中、最初に浮かんだのは、「ずいぶん頭でっかちな(あるいは理屈っぽい)作品だな」という感想。
前半のドラマパートがまるまる「説明」に使われ、IWにあった物語の疾走感がなかったので、理屈っぽいな、と感じたのもある。
(この辺でスクリーンのほのかな明かりに照らして腕時計を見てしまったのは自分でも悲しかった。IWは息をするのも忘れて観ていたから。)
もちろん、チームがいくつかに別れて過去に行ったシークエンス、特にキャップパートの脚本に盛り込まれた情報量とスムースな流れは素晴らしくて、こんな自己参照は観たことがないし、映画の面白さを十二分に堪能させてもらって、わくわくと感謝しかなかった。
が、結局この前半「説明」パートは、サノスとの対決をやり直すための舞台用意のためか、ということが分かってくると、やはりどうも理屈っぽい、という感想に至る。
「物語そのものが作者の手を離れて疾走し始める感」がまるでない。
やけに緻密に計画された話だな、というのを前面に感じる。
そんなことを感じ始めた矢先に、ナットのアレである。
あそこで、気持ちが一度途切れてしまった。もっと正確に言えば、言いたくないけど、気持ちが冷めてしまった。
あれではまるでまるっきり「日陰の花」である。アホじゃなかろうか。
キャプマやゲースロを観ている今の私達が、ナットが自分から命を捨てる行動を観て、頭から血を流しているナットの死体を観て、「なんて切ない、悲しい運命なの…」なんてすすり泣くとでも思っているのだろうか。
最後まで観て、そうかこれはトニーとスティーブの物語の終わりを描く物語だったんだな、と理解したし、トニーの物語には納得する部分もあった。
が、それ以外のキャラクターへの「思いやり」を感じない。(ナットには葬式もない。)
感じられるのは、
「物語の骨格」=「メインキャラクターを形作る概念や属性を解体し、再構築する」
という理屈と、その理屈にそって(あくまでもこの作品単体で)ラディカルに進行していくストーリーライン。理屈にラディカルに従うのは1つのやり方ではある。ただしそこに「情」はない。
ソーの崩れた肉体を世界中に晒させるのも、「どうだ、俺たちはこんなラディカルなこともできるんだぜ!」という制作側のファルス自慢に見えました正直。キャラクターに対する思いやりをなんにも感じない。
言い換えればトップダウンなんだ話の作り方が。Endgameという作品単体で観れば、緻密な構成だと思う。過去作の参照もすさまじい量だと思う。
だけど、今まで積み上げてきた作品で成長してきたキャラクターが自然に行動したらどうなるか、っていう物語づくりではなかった。
映画作りの技術ばかりが先行していて、「架空のキャラクター」というもの、そのものに対する信頼がないと思う。