映画『沈黙―サイレンス―』を考察するのに役立つ幾つかの事。ネタバレあり(※個人の見解です。長いです…)
まずはじめに、僕は神学者になるべく死ぬほど聖書を勉強した経験はあるものの、沈黙の原作者である遠藤周作氏や今回の映画を監督したマーティンス・コセッシ氏と同じくドロップアウトした人間であるため、信仰について偉そうな事を言える立場ではないので飽くまで個人的な感想と見解を述べているに過ぎないという点にご留意頂ければ幸いです
今回の映画公開をヴァチカンは歓迎していますが原作の出版時には著名な神父達によって大きな非難を浴びました。
この素晴らしい話の一体何が彼らをそんなに怒らせたのでしょうか。そして何故今も評価され続けているのでしょう。
自分なりに5つの項目に分けて考えてみました
【1】キリシタンが異国に宣教する理由と幕府が拒んだ理由
【2】信仰を守り通すか、棄教して目の前の命を救うか迫られた時キリストならどうするか
【3】なぜ神は"沈黙"しているのか
【4】ロドリゴが聞いたのは誰の声だったのか
【5】それでもこの作品が愛されるのは何故か
実際に聖書を引用しながらこの作品を考察してみます
早速ですが【1】は文字数が足りなくなったのと
調べればわかる事なので省きます…笑
という事で
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【2】信仰を守り通すか、棄教して目の前の命を救うか迫られた時キリストならどうするか
について書きたいと思います
映画でも原作でも、主人公のロドリゴを含むキリシタンは
江戸幕府によって迫害され
①踏み絵を踏んで拷問されている仲間の命を救うか
②踏み絵を踏まず仲間を見殺しにして信仰を貫くか
という究極の二択を迫られます
この問題とキリスト教徒の思考を理解するため
ここはひとまず読んでいる人の宗教的立場は一旦脇へ置き、
彼らの信じている聖書の教義が全て真実であると仮定しましょう
重要なのは、数多くある教派間で完全な一致は見ていないものの、キリスト教において「死」は終わりではなく、
死後、神を信じる敬虔な者は天国、或いは楽園で永遠に神の祝福を享受する。という点です
「わたしたちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」ピリピ3:20-21
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共におり、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが既に過ぎ去ったからである」黙示録21:3‐4
キリシタンが死を恐れないのはこの為であり、熱心なキリスト教徒は当然「信仰を棄てるぐらいなら殉教者として神の元へ行く」と考える訳です。今ある肉体と命が全てではないと信じているからです
事実、この「沈黙」にも登場する長崎の〝元和の大殉教〟(1622年)では55人のキリスト教徒が火刑と斬首によって殉教しました
では人質を取られたらどうでしょう
自分の命は惜しくなくても、目の前で仲間が拷問されていたら?
その人々を見捨てて信仰を貫くべきか
それとも信仰を棄ててその人々を助けるべきか…
キリストは信仰の弾圧と迫害について予見し
自分を信じ、自分の道に従う事を決めた者達にどうすべきか繰り返し教えていました
「人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、私の名のゆえに全ての民に憎まれるであろう」マタイ24:9
「彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。またあなたがたは、私のために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである」マタイ10:17-18
「体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ体も魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」マタイ10:28
「義のために迫害されてきた人たちは幸いである。天国は彼らのものである。私のために人々があなたがたを罵り、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」マタイ5:10-12
キリストの後に従う者にとって、地上での命を守る事が優先事項でないのは明らかです
これを理解しているキリシタンであれば、目先の延命のために信仰を棄てるという道は選ばないでしょう
聖書の中にはヨブやダニエル、ステファノ等、命の危機に際しても決して神への信仰を揺るがせなかった人々の記述が多く出てきます
では、信仰を棄てる“ふり”はどうでしょう
迫害から逃れるため、表向きは信仰を棄てた様に見せて心の中でだけ信仰していれば良いのでは?
と考える人は多いでしょう。事実『沈黙』の中でも描かれている様に、江戸初期の禁教令下でも偽装棄教をした者は多かった様です。しかしこれに関しても聖書にはハッキリこう書かれています
「人の前で私を受けいれる者を、私もまた、天にいます私の父の前で受け入れるであろう。しかし、人の前で私を拒む者を、私も天にいます私の父の前で拒むであろう」マタイ10:32-33
「あなたがたのうち誰かが「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、その体に必要なものを何ひとつ与えなかったとしたらなんの役に立つか。信仰もそれと同様に、行いを伴わなければそれだけでは死んだものである」ヤコブ2:16-17
「あなたがたはその実によって彼らを見分けるのである」マタイ7:20
信仰は行いが伴わなければ死んだものであり
その信仰を公に否定する事は想像以上に重いペナルティである事がわかります。
相手が誰であれ、信仰を守る行いを見せる事は「彼らと異邦人とに対しての"あかし"」であり
彼らもまた「その"実"によって」キリストとその教えを評価するからです
あまり聖書に明るくない人にとっては慈悲や愛に溢れたイメージばかりが強いキリストですが
実際にはかなり一貫して厳格であり、その教えは明確で厳しいと感じる事もあるかもしれません
「狭い門から入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」マタイ7:13-14
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」ヨハネ17:3
まさに狭き門。神とキリストを正しく知り、それを信じるだけでなく行う事
それが永遠の命に続く唯一の道であると聖書は書いています
つまり、正しい認識のないまま、自分の楽で都合の良い解釈で信じていれば良い様な生易しいものではないという事でしょう。
「私に向って『主よ、主よ』と言う者が皆天国に入るのではなく、ただ、天にいます我が父の御旨を行う者だけが入るのである」マタイ7:21
これらの事から、【2】の答えは明白の事と思います。
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【3】なぜ神は"沈黙"しているのか
タイトルにもなっている神の沈黙。主人公ロドリゴは、何度も「なぜあなたは沈黙しておられるのですか」と神に祈ります。
そもそも神様って喋った事あるんですか? と映画に出演したイッセー尾形さんもインタビューで言っていましたが笑
そう思う人も多い事と思います。
旧約聖書の中では、神は度々人間に直接語り掛けている描写がありますし、預言者を通して人々に啓示を与える事もあります。
ある意味では、聖書も「神の言葉」であると言えます。そして、それこそが【3】の答えだと思います。
【2】で考察したように、キリストはどう考えるだろう、
この考えは聖書の教えに沿っているのか、それとも反しているのか、
こういった疑問は、聖書の中にその全ての答えがあります。
つまり、神は沈黙する代わりに既に答えを用意しているわけです。
「これまでに書かれた事柄は、全て私達の教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みを抱かせるためである」ローマ15:4
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」テモテ第二3:16
全ての答えが記された聖書が完成した後は、預言や異言といった超常現象で人に啓示を与える事はないという事だと思います。
「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。」コリント第一13:8‐10
ですから後は如何に聖書を学び、真理に至るか、それぞれの努力と信仰次第。という事かもしれません。
故に、キリストに関する預言も成就し、学ぶべき事が全て出揃った後に「神の声を聞いた」と公言したり「自分は預言者である」などと言う者は信用してはいけないという事になります。
「にせ預言者を警戒せよ。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である」マタイ7:15
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【4】ロドリゴが聞いたのは誰の声だったのか
こうなってくると、主人公ロドリゴが聞いたのは誰の声だったのか という疑問が湧いてきます。
聖書の正確な知識を持っていればどうすべきか明白な事態に終始狼狽し
神に「何故黙しているのか」とまで言ってしまう程キリストを知らないロドリゴに
キリストが声をかけたのでしょうか…
しかも聖書の教えとは真逆の、踏み絵を「踏むがよい」という甘い言葉
キリストの"あかし"となる機会を棄て、人前で信仰を否定し、地上での延命を選び
広い門から入る安易な道を選ばせる言葉を…
聖書にはこんな記述もあります。
「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう」コリント第二11:14‐15
「サタンは主に答えて言った『人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかし今、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」ヨブ2:4‐5
「悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」するとイエスは彼に言われた「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」マタイ4:8‐10
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【5】それでもこの作品が愛されるのは何故か
ここまでで、何故ヴァチカンが怒り「キリストを歪めている」とまで言ったのかが何となくわかって頂けたかもしれません
僕個人としては自由であるはずの創作、フィクションに政治や宗教が口を出すのは健全とは思いませんが、なにぶん沈黙は史実と創作の配分が絶妙で秀逸なため「これがキリストなのだ」と信じてしまう人も多く、敬虔な信者にとって信仰の対象を歪められるのは耐え難い事なのでしょう
それでもこの作品が今も多くの人に愛されているのは“人間の弱さ”に焦点を当てているからかもしれません
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本作に登場するキチジローも何度も神を裏切る
宗教的な正しさは確かに大事ですが、僕は完璧に道徳を守り行う人間より
信仰と弱さの間で揺らぐ人の不確かさに美しさを感じます。
超眠いので文章滅茶苦茶だと思いますが最後までありがとうございました