FF15モンペの独自解釈:FF15は「他人の気持ちは分からない」ということを逆に上手く活かしているゲームだ
以下ネタバレなのでふせったー
FF15ってノクトが主人公でノクト=プレイヤーであることを強く意識しているゲームだと思う。イグニス、グラディオ、プロンプトの三人は操作できずに、それぞれの判断で動くように設定されている。
「なんで操作できないの?」という声もあると思うけどそれは「他の三人が他人」だからだ。ノクト=プレイヤー以外は他の誰であろうと他人だ。自分で彼らを操作することもできない。レギス王もノクト以外の他人。だから彼らが心の中で何を思っているのかの胸中描写は一つも無いし、回想もない。
多分そう言われると、いや、彼らの思ってることは分かるよ!と反論されると思うけど、それは彼らの何気ない台詞や言動、細かいアクションが「ノクトを大事に思っている」ことを伝えてくれているからだ。グラディオ、イグニス、プロンプトが「自分が操作できない別の独立した人」であるからこそ、細かい会話やアクションから滲み出る信頼感や気安い関係というのがものすごく効いてくる。
現実世界においても、他人が何を考えているのかは決して分からないことだ。ではどうしてその人を信頼するのかといえば、それは日常の細かい積み重ねではなかろうか。ふとした時に助けてくれたり、くだらないことでも笑いあってくれたり、時には本気で励ましてくれたり、辛い時に自然に手を差し伸べてくれたり……。FF15はそれを、あの膨大な会話、挙動、連携での信頼が感じられる動きかたなど全てで表現している。たったひとつの「信頼してるよ」などの安い台詞では得られない価値がある。プレイヤーはノクトを通じて、他人からの信頼感を疑似体験しているのだ。
これは本当に「他人の気持ちが分からない」「ノクトが分かることしか描写されない」を上手く逆手に取ってるな~~と感じてしまった。普通のゲームだと大体のキャラはプレイアブルで、括弧の中で心の声が見えたり、イベントでエピソードが見られたりと、全面公開が基本であるように思う。つまり神の視点でゲームをする。しかしFF15では「ノクト=プレイヤーから見える世界」だけに限定し、その他の視点を全て切り落としてわからなくしたことで、ノクト=自分自身という認識が極限まで高められたんだ。
多分、もとから他三人のDLCが入っていたとしたら、ここまでノクト=プレイヤーのシンクロ感を出すことはできなかっただろう。最後のキャンプで画面が見えなくなるぐらい泣いたりはしなかっただろう。ノクトと三人が別れるシーンであんなに辛い思いをすることもなかっただろう。あの何も知らずに車を押していた頃が、こんなにも愛おしくなることもなかったはずだ。
これからDLCで他のキャラクターたちのエピソードが追加されるようだけど、TBTISの戦法は本当に素晴らしいとしかわたしには言いようがない。ノクト=プレイヤーで体感した世界というものを、しっかりやり通した。他の視点は一切無しで。だからこそ、これまでの冒険で積み重ねで伝わってくる他人の気持ちが、三人のノクトに対する信頼と絆が、ここまでわたしたちの感情に揺さぶりをかけたんだ。こんな風に、わからないはずの他人の気持ちがしみてくるときに、わたしたちは涙する。それをここまで体験できるゲームは、そうそうお目にかかれるもんじゃない。
*レギス陛下の父親っぷりは本編で語られない分、映画、プラチナデモ、ブラザーフッド、キングステイル、そしてなによりOPですべて語られると思うので言うまでもないです。マルチメディア展開すばらしい。もしかして本編でこのノクト視点を貫くための他メディア展開だったのかと邪推するぐらい本当にすごい計画的にプレゼンされたゲームだと思います。