記事「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」
に対する意見、感想
同意見もありますが、反論もあります。
ほのえりください
私は、「ゆび祭り」「まゆゆ」のことは何も知らないので何も言えません。ですが、映画版ラブライブ!は見たので、そちらについて記事に対する意見等書こうと思います。
「どのような物語性もない」
スクールアイドル「μ's」は自分たちが有名になることで学校の危機を免れた。
これは勝手な推論だが、μ'sが解散し、スクールアイドルが注目されなくなるとまた元の状態に戻ってしまう恐れがある。これを避けるため、スクールアイドルに有名になってもらおうとしたのではないだろうか?そのためにNYで「スクールアイドルとして」有名になり、秋葉原で「スクールアイドルを集め」注目させたのではないだろうか?もちろん、他のスクールアイドルが有名になること自体も目的としていただろうが、それが巡り巡って自分たちのためになると考えたのだと思う。μ'sが解散するためには「ただ解散します」と言うだけでなく、「音ノ木坂が存続すること」も必要だったのだと思う。
つまり、この映画全体が「μ'sが解散するため」の物語だと思う。
「行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリー」
たしかに、本編からは脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、京極監督曰く、「劇場版制作がアニメ2期制作中に決定したが、映画を意識して歩みを進めると(TVアニメ2期が)失速するから」という理由で劇場版をアニメ2期完結後に考えようとした[1]とあるので、完結した物語から話をつなげるには突発的な何かを与えなければならなかったのだと思う。
ちぐはぐで行き当たりばったりな感じがしたのは否めないが、それは前半と後半で小さな目的が変わっているためだと思う。前半では「スクールアイドルを確固たる地位にするため」にNYでライブを行い、後半では「他のスクールアイドルもいることを周知するため」にアキバでライブをした。しかし、よく考えてみると、いずれもμ's解散後にスクールアイドルが地位を失わずに続くようにするための配慮であったのだと思う。
「ニューヨークで何も得ていない」
ニューヨークでのライブを行うことで、μ'sメンバー各個の思考や内面は変わることはなかった。しかし、彼女たちは、ニューヨークに行った本来の目的である、「有名になること」は確かに達成し日本に戻ってきた。
「劇場版『ラブライブ!』で穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない」
たしかに、映画では終始穂乃果目線で物語が進んだ。しかし、120分間にアメリカでの作曲練習ライブ、帰国後の周囲からの期待にどうするか、自分たちの意思の確認、スクールアイドルを周知させるには、ライブ3曲、全体曲3曲…とこれだけ詰め込んでいるのを考えると、これ以上の要素を詰め込むのには限界を感じる。今回穂乃果以外の出番が少なく、それに不満を覚える人もいるだろう。僕は穂乃果と絵里とのやり取りを見ることができたので満足しました。
「全員一緒くたにされてしまう」
続ける云々のくだりでは、「絶対に反対派」と、「他の人のために続けるべきか迷う派」がいて、そこで個人の考えをもう一度聞きたいとは思った。しかし、これもアニメ2期ですでに決意は固まっていたはずであるから、仲間を信じて出たセリフが「想いはみんな一緒のはず」だと思う。
「判で押したような浅薄なキャラ付け」
「小泉花陽をバカにしているのではないか」
この件は同意できる。各部屋でナニが起きていたかは見たいが、ババ抜きやチーズケーキ、お米の件などは必要だったのかと疑問に思う。その時間で各キャラが何を考えているかなどを深めてほしかった。
「人間を描こうという当初のスタンスがすっかり失われてしまった」
各個がどう感じ、どうしたいのかをもう一度確認するシーンは見たいと思った。しかし、やはり120分には収まらないだろう。無理やり尺に収め、かつ、ストーリーを無くさないために穂乃果以外が犠牲になってしまったと感じた。
出典
[1] ラブライブ! The School Idol Movie 公式パンフレット24ページ