②X-MEN初心者から見たレーンシャーさん考(引き続き妄想過多)
前回より内容のブレが目立つのはきっと気のせいじゃない。
チャールズさん考(http://fusetter.com/tw/qGMJl#all)に続いて。FC・DoFP・APのみ見ての感想もとい妄想です。各所脇の甘さについてはご容赦願いつつ、訂正・ご指摘など頂けましたら大変ありがたく存じます。
いろいろ思うよりまずはじめに、APの冒頭でエリックが故郷で職を持っていて、奥さんがいて娘さんがいる設定に不覚にも泣いた(そしてその時点で完全に予想されるその後の展開…)。前二作でやってきたことがそれぞれ壮大すぎて一瞬落差を覚えがちですが、そもそもエリックってチャールズのように何か理想や明確な目的があったりするわけではない、完全な巻き込まれ型主人公だったなという。出自を取っても能力を取っても、どこまでも他人に人生を壊されてきた人で、そう思うと、ああこれが等身大のエリックなんだろうな、彼が本来望んだことってこんなささやかで当たり前のことなんだろうなというのが伝わってきて、もう先を見るのが辛いわけですよ…いや見たけど(それも複数回)…
というわけでエリックさんを巻き込まれ型主人公(XMENはダブル主人公の認識でも間違いない…ですよね…?)と定義づけましたが、きっかけは他者からの迫害だったとしても、その後に彼が引き起こした大量のあれこれの責任の所在はもちろん彼にもある。それってなんでだろうと元を辿ると、エリック、根本的な部分で「ことば」を信じてなかったんだろうなと思うわけです。彼の世界において言葉は物事の上っ面を滑っていく飾りや嘘でしかなくて、結局人を動かすのは恐怖や嫌悪(と、見えにくいですが愛情や好意)等の言葉になる前の感情、それに力だと思っていた節が強い。FCで「平和が俺に何をしてくれた?」「そういう(罪のない)奴らが自分を傷つけた」とあくまでチャールズの説得を突っぱねる姿、またそれ以上にDoFPでレイブンが未来の脅威になる可能性を聞いた際に迷わず彼女の生命の抹消を企図する思考やAPで自分を告発した者がいる工場の人間全員を殺そうとしたことなどなど、挙げていけば割ときりがないんですが、なんというかゼロ百思考というか、言葉を使って相手を説得する/よりよい結果へ向かうよう交渉するという選択肢が彼の中にはじめから存在していないのが明らかなんですよなあ。またこの辺りの描写、個人的には彼が一貫してやるかやられるかの二択しかない世界で生きていて、最大限の自衛の為に自分の能力を活用しているに過ぎないようにも見えました。つまり「やる」「やられる」の応酬の中で勝ち抜いた“結果として”生きているだけであって、生きることそのものへの執着があまり感じられない。なんかもうその時点で闇が深いんですが、その意志が「やられる前にやる」に全振りされているうえ攻撃に転用しやすい能力を持っていたからこそ指名手配犯として「生きて」いたに過ぎなくて、もし仮にエリックより強い存在がいて、それと交戦して死ぬことになったとしたら彼はそれ自体をあっさり受け入れそうだなと思ってしまったりもしてまあ俺のソウルジェムが濁る濁る。なのに彼自身は誰かに「やられる」には強すぎて、代わりとでも言わんばかりに周囲の人間(仲間だったミュータントであったり、彼の家族であったり)が犠牲になっていくようにしか見えないわけでして。エリックの能力と思考と生き方を見ていると、当たり前というかチャールズのそれ(あくまで影響する対象としての他者の存在が前提になる能力、他者との共存・折り合いを旨とする思想)と好対照をなしていてストーリーテリングの手法として面白いと思うと同時にいちキャラクターの背負わされた宿命としては重すぎて絶句するしかありません。
APでエリックが突き落とされた絶望に付け込んだエンサバヌールの存在や最終的に彼が翻意することになったきっかけについては他のファンの方の詳細な解説に禿げるほど同意してますので私が今更付け加えることはあまりありませんが、三部作を通して見ると、改めてこれは(ディス)コミュニケーションの物語だったんだなあと思った次第です。チャールズ・エリック間はもちろんのこと、チャールズとレイブン、エリックとレイブン、チャールズとハンク、レイブンとハンク、他にも様々な登場人物たちのコミュニケーション不全の物語でありその再構築の物語でもある。AP最後で学園を襲われる可能性を問われたチャールズの「彼らの貧しい心を憐れむよ」という答え、X-MENを新生させた(FC時からエリックが主張していた「自衛」の道を選び取った)事実のその二面性にエリックがコミュニケーションの再生を見たかまた別の齟齬の始まりを見たかは観客に委ねられたと思っていいのでしょうか。