ハリウッド攻殻こと『ゴースト・イン・ザ・シェル』のネタバレ感想です。
ルパート・サンダース監督による本作は、士郎正宗による原作のハリウッド実写映画化ということなのだが、ビジュアルが表に出始めた頃から誰もが気づいていたように、実質的に目指すものは押井守監督による最初の映画、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の実写化だった。
押井監督の映画版についての思いを述べるなら、本を一冊書いても足りないけれど、ともかく、押井版が原作にあったホットなキャラクターのイメージをクールダウンし、コミカルなテイストをシリアスなものに大幅に変更したことは疑う余地もなく、そしてそのテイストは、後の神山健治版、黄瀬和哉版にも引き継がれていて、間違いなく本作もその系譜に位置する。
(例外的にPS1のゲームは原作のテイストを踏襲していた)
そういう訳で、以下本作『ゴースト・イン・ザ・シェル』については、押井版を比較対象としてゆく。
1.押井版へのリスペクト
本作は、押井版に対する愛とリスペクト精神が全面にでていた。サンダース監督が押井版に惜しみない愛情を注いでいることは、監督が「バセットハウンドを出した」と公言した時点で間違いないとは思っていた(原作とは関係無いが押井版に登場し、そして押井守さんが溺愛する犬種だ)。
本編が始まると、開幕からクライマックスに至るまで押井版を彷彿とさせる場面の目白押しだった。素子ダイブ。ボートの対話、市街地の撮影……。多脚戦車をどう描くかも作家性の現れるところなのだが、フチコマやタチコマにみられたAI要素を排し、兵器として描写するところも押井版と共通している。また、車両や高速道路も原作よりも押井版を想起させるし、続編の『イノセンス』を彷彿とさせる場面も登場する。
他にも、ある場面で核となるマンションが「アヴァロン」だったりすることからも、本作にこめられた押井愛の深さがわかるだろう(しかし押井ファンとしては、こんな名前の建物で自らの記憶を辿りたくはない!)
2.演者たち
役者たちは本当に素晴らしかった。少佐を演じるスカーレット・ヨハンソン、バトーを演じるピルー・アスベック。この二人は満点だったし、トグサを演じるチン・ハン(もっと出番をくれ)もいいし、イシカワ役ラザルス・ラトゥーエル(出番がほとんど無い)の面構えなど、アメリカで作るにはベストの面々だったと思う。
そんななか、どう受け取るにせよ異常に突出したキャスティングが「荒巻大輔が北野武」というものだった。はっきり言ってここだけは押井イメージどころか全シリーズのイメージからかけ離れているし、自らリボルバーをぶっ放す姿は荒巻というキャラクターの根幹からも乖離しているが、襲撃にきた敵部隊を全員射殺し、這い回る相手に容赦なく弾丸を浴びせる姿そのものは説得力に満ちているというか、「まあ、色んな組で親分でしたもんね……」と納得せざるを得なかった。
演技指導という意味では、ヨハンソンにはもう少し瞬きを抑えて欲しかった。全身義体なのだから。
3.世界観
そういえば本作の舞台はどこなのだろう。主要キャスト全員が英語で話す中で荒巻が日本語しか使わないのは、北野武が英語をしゃべれないという事情を除外して考えると不思議な気はするが、要するに他民族・多国籍化した未来の日本なのだろう。しかしそれが読み取れるのは、ラストも間近に彼がサイトー(いたのか! と思うほど希薄でありながら突然すべてを解決する)と会話する一瞬だけだ。せめてモブたちにはもっと日本語をしゃべらせるべきではないか?
ともあれ無国籍感あふれる未来都市の描写には、残念ながらそれほどの斬新さを感じない。例えば巨大立体映像の広告や、アングラバーの猥雑さなどは(押井版も影響を受けた)リドリー・スコットや、あるいはポール・バーホーベンを連想させるが、さほどの斬新さはなかった。
面白いことに、本作が独自に描く都市描写よりも、清掃局員が路地を逃げる場面など、露骨に押井版をトレースした場面の方が鮮烈に感じるのだ。ラスト間近に、暗いトーンで描かれるある場所がとても綺麗に映っていたのだが、もっと全体的に抑制的な色使いのもと、現代的な都市生活に未来的なガジェットが溶け込んでいる方がよかったように思う。
4.脚本
脚本に関しては疑問の山だ。まず事件ものとして観ると、流れがまったく整理されていない。押井版が原作を大幅に整理し、ガベル共和国と日本の外交問題と、「人形遣い」の存在にフォーカスしてシンプルなプロットに再編成して、それ故に哲学的アプローチを加えられたのとは対照的に、本作は事件の発端から中盤の展開、結末までがバラバラだ。破綻はないが冒頭の事件を追えばいいのか、少佐の暴走を追えばいいのか、クゼを追えばいいのか。何に関心をもって話を追えばいいのかがさっぱりわからないし、フックが希薄で内容に引き込まれない。
押井版オマージュの場面にもこの欠点は現れている。例えば強烈な「清掃局員」の場面でも、押井版は
「『娘と映った写真』を同僚に見せたがる、清掃局員の家族に対する思いと、生活感あふれるキャラクターの提示→逮捕→取り調べで全てが幻だと告げられるが、信じられない→ハッキングが解けた(しかし偽の記憶は残っている)状態で、一人だけ映っている写真をみせられ涙を流す」
という完璧な流れなのに対して、こちらは
「清掃局員が同僚と焼きそば食いながら娘について愚痴る→逮捕→クゼの写真を見せられるが、それを娘だと思い込んでいる→あんたは独身だと言われるが、信じない→自殺する」
という訳の分からない順番に直される。これでは彼が自分の記憶が偽物だったと痛感することもなく、幸せな偽の記憶を植え付けられるという残酷さも伝わらない。しかも押井版では「トグサとイシカワが取り調べをしていて、ガラスの向こうの素子がそれを見つめている」という構図によって、素子が「記憶」に対する疑問を感じている姿が描かれるのだが、本作では少佐が直に取り調べてしまうので、緊張感がまったくない。
ただ、あの何もない取調室でぐるぐる周りながら清掃局員を追いかけて歩く少佐はなんかかわいかった。
5.キャラクター
一番駄目だったのがキャラクターの描写だ。正確には、それを通じて描かれる思想が駄目だった。決してヨハンソンではない。押井版において一貫してストイックであり、その一方で自我の根本を求めあがいていた草薙素子の美しさは、本作のどこにもない。
まずは冒頭。「少佐」の製造工程という押井版名物のオープニングからはじまって期待値は抜群と思えば、そこからシームレスに目覚めた少佐が過呼吸を起こしパニックに陥る場面に落胆した。そして「少佐」がバリバリの一線で活躍してるのがそのオープニングの「1年後」というのも、いくらなんでも短すぎる。 設定上、自分は溺死しかけた難民だという曖昧な記憶しかもっていないこの「少佐」が、なんで特殊部隊のエリートとして任務に命を張ろうと思えるのかが理解できない。むしろ「製造工程」の場面が終わったら、目の動きなどで「自我」を演出し、そこから最高のバックアップを得て10年ほど9課で戦い続けたという設定の方がよかったのではないのか?
押井版の名場面たるダイビングをしても、彼女が「フロートがなければ溺死する体でダイビングを趣味にしている」という危うさと切実感がない。
そしてクゼは本作においては、まったく「少佐」の対を為していない。彼はただ単に少佐の先行量産型失敗作だ。一応その先の展開もあるが、そちらにいたっては冗談にしか思えないメロドラマだった。
驚くなかれ。『ゴースト・イン・ザ・シェル』を名乗る本作には「人間と機械」という課題に対して、その境界が揺らぎうるという感覚すら無い。 企画段階では「なんで相手がクゼなんだ?」と思ったが、展開を観ればあきらかだった。制作者は、相手が人形遣いではメロドラマたり得ないと思っているのだ。神山監督の二期とはなんの関係も無い。
いっそ、クゼは当初単に暴走したロボットと思われていて、その彼に少佐が「記憶を取り戻せ」と揺さぶりをかけられ、そしてクゼの正体は「ロボットを究極的に人間に近づける計画」であり、その失敗を踏まえて生まれたのが「人間を徹底的に機械化する」少佐で、そして少佐は自我の存在に疑問を抱き、ロボットのはずのクゼにゴーストが宿っているという疑念が生じる方がよかったのではないだろうか……。
6.結末
最悪なのはラストだ。押井版において「人形遣い」との融合を果たした草薙素子は、バトーに「人形遣いはそこにいるのか」と問われて答える。「ここには人形遣いと呼ばれたプログラムも、少佐と呼ばれた女もいない」。そして彼女は人間の領域を越え、ネットワーク上の存在と化したことを示唆して映画は終わる。
一見、ぎょっとする展開ではある。しかしこのラストにこそ、素子の望む生き方が現れていたと思うし、人間としての自明性を見失っていた素子が、人間としての限界を突破するという結末にこそ、映画の醍醐味があった。
それは、一見して人間の領域が失われたようにみえても、そこには必ず新たな人間像が存在するという未来に対する肯定的感覚であり、そして、常に「来たるべき未来」に怯える現代人に対して映画が示した、暖かいメッセージでもあったのだ。
だが本作においては、彼女はバトーに問われ「私は少佐だ」と断言する。そして取り戻した記憶と人間性の大切さを、くどくどとモノローグで述べて終わる。これは観客が自明のものとして捉える「人間」の性質をそのまま反復しているだけであり、一見ヒューマニズムに思えるこの結論は、その実きわめて保守的で、ビジョンも理想もなにもない。このような人間観は観客を安心させるかも知れないが、何ら新しい発見をもたらさないし、価値観を揺さぶることもない。
加えて言うなら、なぜ偽の記憶を植え付けられて一年間戦っただけの彼女が、また9課に戻ろうと思うのか。
7.ホワイトウォッシュ
さて本作をめぐっては、公開前から物議を醸している問題があった。それは「草薙素子にあたる主人公を演じるのが、なぜ白人のスカーレット・ヨハンソンなのか」ということだ。私は最初、それを問題とも思わなかった。全身義体、それも戦闘用とあればそのような設定は可能だし、むしろ意味を持たせられると思ったからだ。
しかし公開前、「役名は草薙素子ではなく少佐になる」と聞き、さらに「ミラ・キリアン」という名前になっていることを知って失望した。それではまったく意味が無いだろうとも思った。
しかし鑑賞後、その疑念は完全に消し飛んだ。正確に言うなら、序盤の展開を観て、「これが実はこうならいいのに」と思ったことが、まったくその通りに描かれていた。
設定と展開の是非はさておき、断言できる。スカーレット・ヨハンソンが配置されたことは決して無意味なホワイトウォッシュではないし、作品は、この配役の意味に自覚をもっている。
8.最後に
散々文句を述べたけれど、総じて言うならば、観て損はないという印象の映画だった。少なくとも、あなたが「攻殻」に関心をもつなら、観て何かを言いたくはなるだろうし、IMAX3Dは迫力もあった。
しかし一つだけ言いたいのは、様々なシリーズで描かれた草薙素子の魅力は、それがなんであれ(あるいはその多様さを含め)、彼女は何か可能性を得るためなら必ずそれに食らいつき、自らの限界を突破する機会があればその全てを実現してみせる強靱さにあった。
本作の「少佐」はその強靱さを放棄するところから出発していた。
肯定するのであれ、否定するのであれ、この少佐像をどう捉えるかが、この映画に対する感情を左右するのではないだろうか。
攻殻機動隊であるからこそ鑑賞し、だからこそがっかりもしたこの映画をなんといおうか? 私は字幕版でこれを観た。そして、さあ、アニメと同じキャスティングの度吹き替え版でもう一度観なければならないと、そう思っているのが事実だ。
(追記:その後吹き替え2Dと吹き替え3Dで合計三回観た)