というわけで以下リンク先でシン・ゴジラ感想 ゴジラに対して思い入れがないので災害パニック映画として見た感想です
『シン・ゴジラ』の最大の特徴は、人間を一切描いていないこと、という一点に集約されると思う。
災害にしろ怪獣にしろ異星人ものにしろ、パニックものは、社会や生活を破壊する巨大な力に対して、大きなシステムの対処を描いていても、全体としてはそれを一個人の目に集約させて、家族ドラマや恋愛ドラマと重ね合わせることで、スケールの大きすぎる事態の現実感を担保して観客に没入させる、と方法論で作られるのが当然だった(と思う)。
それに対して『シン・ゴジラ』は、リアリティと共感性のための人間ドラマを、全て夾雑物として切り捨てた。一切合切、完璧に人間ドラマを排除した。
恋愛要素がないとかそういうレベルの話じゃなく、この映画の登場人物は全て、日本という国のシステムが、ゴジラという巨大災害に立ち向かう、その機構の歯車である。大量のテロップとともに覚えきれないほどの人物が登場し、その中の何人かの主要人物も、その家庭環境や過去のトラウマ、感情の確執のような、従来の〝人間を描く〟文法において必須なバックボーンは一切与えられていない。彼らはただ、日本というシステムがゴジラという災害にどう対処するかを描写するための駒に過ぎない。
延々と続く会議シーン、政治的な各種調整に映画内の膨大な時間が割かれるのも、この映画の主眼である「日本という大きなシステムvsゴジラという巨大災害」を描くこと〝だけ〟を徹底した結果である。
これは東日本大震災を経験した現代日本において、怪獣パニック映画を作るためには、これだけ政治的・社会的リアリズムを徹底しないと成立しない、というひとつの事実の提示であるし、あるいは『永遠の0』的な、巨大な悲劇を個人のメロドラマとして消費することに対するある種の抵抗とも言える。
『シン・ゴジラ』の面白さとは、無数の歯車によって巨大な機械が整然と動くことに対する感動に近いと思う。プロフェッショナルが最善を尽くして想定外の事態に対処する。従来的な意味での〝人間ドラマ〟が完璧に排除されているので、登場人物は迷わないし、躊躇わないし、いがみ合わないし、絶望にうちひしがれもしない。この映画の登場人物は一切成長しないし、失われたものを回復することもない。ただ、己のすべきことだけをする機械である。
ゴジラという力は、個人のドラマを仮託するには大きすぎる。巨大すぎる悲劇はただ全てを破壊するだけで、それによって家族の関係が修復されるとか、トラウマが克服されて人間的に成長するなんて〝物語〟は、もはや〝お約束〟と化してしまったためにリアリティを失っている。
ひとつのシステムが最善を尽くして巨大な悲劇に立ち向かう。そこには従来的な意味での〝ドラマ〟は無い。しかし、絶望的な力に対して、ひとつのシステムが最善を尽くして立ち向かうことで事態が打開される、そのことにはちっぽけな〝人間性〟を超えた興奮が生まれる。
災害はただ全てを理不尽に破壊するだけで、我々は粛々とそれを乗り越えるしかない。人間性を蹂躙する力に対抗できるのは個人の人間性ではなく、人間が歯車に徹することで結集される力である。
これはゴジラという巨大な災害を描いたシミュレーションSFであり、論理に作品の全てが従属するという意味で本格ミステリですらある。
人間性を徹底的に排することでしか描けない面白さがある。『シン・ゴジラ』はそういう映画なのだ。