スーサイド・スクワッドのあれこれ考察、ネタバレ注意。
スーサイド・スクワッドはBvSのヴィランなんだよって話。
あんまり変わってなくてごめんな……。
【はじめに】
BvSの特典にて魅力的な悪役とはどういう悪役かという話が出た。その時の答えは「悪落ちしたif」か「正反対の鏡」であり、DCEUでは祖国復興のためにすべてを犠牲にするゾッドがスーパーマンの「悪落ちしたif」でありあらゆる意味で正反対なレックス・ルーサーがスーパーマンの「正反対の鏡」だったそうだ。どうして突然この話から始めたかというと、スーサイド・スクワッドという物語がBvSの「悪落ちしたif」であり「正反対の鏡」であるからだ。
【インジャスティスリーグ】
さて、まず初めに言っておかなければならないのはスーサイドスクワッドを「悪が悪を討つ」物語だと捉えたらこの物語の本質を取り逃がすことになる。正確には「過去に悪さをしてきた連中が今現在進行形で悪いことをしている連中を討つ」物語だ。
何が違うかわからないと思うかもしれないが、これを「スーサイドスクワッド」に当てはめるからわかりづらいのだ。これを真に当てはめるべきなのは「バットマン」であり、だからこそ正確な方の解釈が必要となる。
ご存知の通りBvSでバットマンは様々な犯罪行為に手を染めていた。BvS本編を見たり、ぴんと来なければアルティメットエディションを見ればわかることなので割愛するがとにかく彼は「悪だった」。しかし、スーパーマンと戦ったことで彼はヒーローへと戻ってくることができた。つまり、罪が消えるわけではないが悪人は一生悪人というわけでもないということだ。
だが、今回の「スーサイドスクワッド」では逆のことも述べている。善人は一生善人というわけでもない。エンチャントレスはかつて神とあがめられており、今回人類に対して壮大なケンカを売ったのも『人類サイドが自分のことを脅している』からだ。そもそもスーサイドスクワッドことタスクフォースXが組織されたのは「スーパーマン不在の時、『悪のスーパーマン』が現れた時のため」である。そしてエンチャントレスに運用されているということは彼女はこの作品において『悪のスーパーマン』である。
実際、エンチャントレス姉がしていることは『悪のスーパーマン』であるゾッド将軍のワールドエンジンとジェネシスチェンバーを使ったテラフォーミングとほぼ同じであり、弟はその星の生命の情報を取り込んで再構築されたゾッドことドゥームズデイだ。
そして、ここから少しウルトラCを決めることになる。さらに彼女たちとパラレルになるほとんど同質の属性を持っている存在がいる。「ダークザイド」だ。だれだかわからない人は翻訳「ジャスティスリーグ:オリジン」をぜひ買ってほしいが、すごくざっくりいうとDCEUでは地球侵略に来た宇宙人である。恐らくあのバットマンの予知夢的なマッドマックス世界を牛耳っており、ルーサーが宇宙からくる脅威と警鐘を鳴らしていたのがダークザイドである。彼も地上を変え果てたので恐らくゾッド≒エンチャントレス姉弟≒ダークザイドで結ばれるのだと思う。
なぜ妙な経由を必要としたかというと、「バットマンがジャスティスリーグの面々を集めているのはダークザイドを打ち破るため」であり、これが今回のスーサイドスクワッドの「アマンダ・ウォラーがスーサイドスクワッドの面々を集めたのは悪のスーパーマンを打ち破るため」とパラレルになっているのだ。ここでようやく生きてくる。つまり、この「スーサイド・スクワッド」という物語は「DCEUにおけるジャスティスリーグのオリジン」なのだ。
だから、正確な解釈が必要となる。バットマンとジャスティスリーグの面々とスーサイドスクワッドの面々はそこまで大差ないということであり、DCEUにおいて「ヒーロー」とは「脅威に立ち向かうもの」以上の意味を持たない。
【神不在の神殺し】
この物語にウェットな部分はすべてずらされている。要は愛だの正義だの絆だの奇跡だのの「物語にとってのお約束」が削がれており、ドラマに直結していない。
例えばエンチャントレスに因縁があるはずのリックフラッグはラストバトルで目立った活躍はせず、チームも連携してラスボスと戦ったもののほぼ居合わせただけという感じが否めず、しかもアマンダを助けるモチベーションも低い。彼らがいくら努力しても天からスーパーマンがやってくるわけではないし、いるはずのフラッシュやバットマンでさえ駆けつけてこない。殺されても勤勉な新聞記者にすら及ばないほど死の扱いが軽く、おまけに勝ったところで彼らの減刑は微々たるものだ。
ゆえに物語において「ドラマを構成する要素」が異常に弱く作られている。そして、どれもがカタルシスに直結していないと考えると、偶然というよりは必然だろう。つまり、スーサイド・スクワッドには「感動的な物語が内包されておらず、主人公補正などもまともに効いていない」。
実はこれは、スーパーマン、バットマン、ワンダーウーマンの三人がドゥームズと戦った時と同じだ。彼ら自身にドゥームズデイとの因縁があるわけでもない、連携して戦ったというよりも個々がそれぞれ実力を発揮していただけであり、おそらく戦ったのも「いつものことだから」だ。彼らがどんなに努力してもほかのメタヒューマンは駆けつけてくれない。勝ったところで名誉があるわけでもない。つまりBvSとスーサイド・スクワッドはほぼ同じ話をしており、『編集のされ方』が違うだけなのだ。言ってしまえば物語と事実の対比だ。
ではこの違いを生んだのは何か。編集者の存在の有無であり、いってしまえば「レックス・ルーサー」がスーサイド・スクワッドにはいないのだ。BvSはルーサーが各々のキャラを過剰に演出して「自分の物語」にみなを従わせようとしていた。だがエンチャントレスはそんなことをする気はみじんもない。この差異が何を生むかというと「スーパーマンをどう見るか」という問題だ。
BvSでルーサーは『神にも等しい存在』と過剰に演出する一方で『ただのカンザス出身の青年』であることを利用していた。つまり、『物語』を利用していた。一方、バットマンはうすうすは違うと思っていたが『神にも等しい存在』だと思い、『ただのカンザス出身の青年』であることに気づき、『物語』から解放された。だがエンチャントレスは物語を利用していない。ゆえに誰もが互いを見ている……つもりになっている。
言葉を濁したのはこの映画の構造そのものがちょうど「Aだと思ってたら実際はBだった」となっているので要はバイアスの映画になっているのだ。冒頭の登場人物紹介で描かれてきた凶悪な設定と実際の彼らの人となりは違うため、少しイメージがずれるようになっている。過剰な物語を否定するのはこのためだ。イメージではなくその人を見てほしいということなのだろう。それこそがスーパーヒーローを神から人へと戻す手段であり、人を正当に評価する方法だ。確かに神はいなかったかもしれないが、すごい人たちが伝説を作っているのは間違いない。
【結論】
映画スーサイド・スクワッドは「ジャスティスリーグ」のオリジンであり、「やらかしたバットマンがなぜまだヒーローとして認められるか」ということを通して、DCEUのヒーロー観を明らかにした映画である。また、「神なんていない、すごい人たちがいるだけだ」というのを苛烈に描いたのがスーサイド・スクワッドであり、実際バイアスがかかっている意味での「神」の概念を殺し切ったのでこの物語は壮大な神殺しの物語である。そして、この映画自体がBvSのヴィランである。
【おまけ】
・やっぱりこれは「バットマン」の映画だよねえ。だからラストにスーサイドスクワッドメンバーも含んだリストを受け取るんでしょ。彼がジャスティスリーグとして引き継ぐってことで。
・本文に組み込むと長かったけど、この物語で恋愛ってのは成立してない。ハーレイの愛は重たすぎてジョーカーが必死に返してても返しきれずに困っている。でもそんな彼女が望んでいるのが円満な家庭なんですけど「妻の愛が重すぎる」と思ってるジョーカーさんと幸せな生活は望めないと思うなあ、ジョーカーさん潰れそう。後、デッドショットさんもエンチャントレスに見せられたのが「バットマンを殺す」だから暗に娘と一緒にいたいってことなんだろうけど、娘は娘の意図を汲んでくれないデッドショットといて幸せになれるとは思えんなあ……。手紙、いろいろあるだろうけど一方通行だしね。恋愛はキャッチボールなんだなと思わされました。
・おそらくジャスティスリーグとスーサイドスクワッドは1対1での正確な対応はしていないけど、その中で1人だけおそらく対応の関係になっているキャラがいる。スーパーマンとディアブロだ。彼らはともに過去の出来事で自分の力を危険視していて、どう使うかについて長いこと迷っていた。恐らくディアブロ対エンチャントレス弟の戦いはスーパーマン対ドゥームズデイの再話なのんじゃないかな。彼がきっかけでそして彼の犠牲でチームがまとまり始めるしね。
・もしかしたらデッドショットがバットマンだからあんだけ出張ってんのかなとは思う。ウィル・スミスだからかもしれんが。
・「幻想を放棄することで幻想から解放する」って話なので物語性をわざと投げ捨ててるから、各々のキャラを魅力的に描いていくことに注視したのかなぁと思う。逆に言えばキャラたちもどこかで「幻想」をまとってるっぽいので自分もキャラたちをどっかで読み間違えてるかもなあ。
・今回のMVPはハーレイだな。やばいっしょ? あのジョーカーさんに「脳の電気ショック治療をしなきゃ」ってたとえジョークでも思われてたってことは「ジョーカーさんですらあのハーレイさんはやべえ」と思ってたんですよ。それに、ジョーカーさんも次々とハーレイを試して、しまいには自分のオリジンをたどらせてるから相当好きなんでしょうね。重すぎる愛を捨てたいけど、でも好きだから捨てられない、もはや業と化してる……。ハーレイさんもハーレイさんで「あいつ私のことを捨てられないから」って思ってる節はある。肉体DV対精神DV……ここは地獄の三丁目かと思ったけど、あそこはゴッサムシティだ……。
・ジョーカーで鍛えたからかハーレイさんの人身掌握術と他者から見た自分の冷静な分析、及び自分の活動限界を常に伺いつつ広げているアクロバティックさやべえ。頭の切れ方はルーサーの比じゃねえぞ……。なんだよ、あんなやばい状況でジョーカーからのスマホを受け取れるて没収されないまま連絡までできるし、首の爆弾解除までさせるって……。
・今回もアメコミの原作の文脈をちょいちょい使ってたけど、「ないと意味をとるのに難儀する」レベルはなかった……気がする。良心的。