『哭声 コクソン』超ネタバレ
●チョン・ウヒは村の守護神的な霊
●ファン・ジョンミンはワル。悪魔主義者。悪魔の召喚・復活が真の目的
●國村隼も当然ワル。悪魔主義者。登場している映画の大半は“人間”の役。悪魔となって登場するのはエンディングのみ(守護神チョン・ウヒの力で“人間”國村隼はトラックに轢かれて死んだが、悪魔が國村隼の肉体に宿って復活)
●ファン・ジョンミンと國村隼は悪魔崇拝の部分で共通しているだけで、恐らく顔見知りではない(この二人が出会う共演シーンが一つあったみたいだけど、編集段階でカット)。ファン・ジョンミンは最初にクァク・ドウォンの家にやって来たとき、その段階で國村隼の目的を察知する(かめの中のカラスなど)。そして影で支えながら、協力して悪魔復活を果たそうと行動していく。ふんどし着用の共通点は観客に向けてのヒントというか、若干あざとさも見えちゃってるアピール
●オープニングのルカによる福音書24章37節-39節はキリスト復活についての内容だけど、この映画はその24章37節-39節を悪魔復活に置き換えた。舞台となってる村をある種のエルサレムとして見ることも可能かもしれないし、迫害される國村隼は悪魔の反転としてのキリストを投影しているようにも見える
●本編中最大のミスリードはファン・ジョンミンと國村隼の祈祷シーン。一見、この二人がバトッてる対決シーンのような構図だけど、ファン・ジョンミンがやってることはクァク・ドウォンの娘を救おうとしているのではなくて人身御供(ひとみごくう)。娘を悪魔へ生贄として捧げようとしていた。だからあのとき、クァク・ドウォンが儀式をぶち壊したのは実は間違っていなかった。
●一方、國村隼はあの祈祷で何をしていたのかというと、トラックの運転席で死んでいたパク・チュンベの肉体に悪魔を召喚して宿そうとしていた。だけど、これに対抗したのが守護神チョン・ウヒの力で、だからあの祈祷の最中に國村隼はもがき苦しむ。そして森でチョン・ウヒに出会ったとき、捕まえようと必死に追いかける
●祈祷をチョン・ウヒに邪魔されて儀式が失敗した…… と國村隼は思い込んでたに違いないけど、トラックの現場にパク・チュンベの死体がなかったから驚いた表情を見せる。成功したのか!? いや、成功はしてないから、パク・チュンベは中途半端なゾンビとなって復活した(笑)
●守護神チョン・ウヒの力に恐れをなして急いでソウルに帰っていたファン・ジョンミン、蛾の大群によって車を襲われたのは、あれはチョン・ウヒではなく悪魔の力。悪魔の「務めを果たせ」という意思表示。だからまたあの村に引き返す……
これは映画の外枠の感想で話がズレるけど、神への信仰・崇拝を描いたスコセッシの『沈黙 サイレンス』と悪魔への信仰・崇拝を描いたこのナ・ホンジンの『哭声 コクソン』とで、タイトルが丸っきり真逆の意味を表してるとこが面白いと思った。黙り込んでいるのと喚き叫んでいるタイトル、神と悪魔がここでも反転してる。ちなみにマタイによる福音書26章34節、キリストがペトロに言った「今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」を元にしたネタは両方の作品に入っていて、『沈黙 サイレンス』もあるシーンの後にニワトリが三度泣くし、『哭声 コクソン』でもチョン・ウヒとクァク・ドウォンのクライマックスのシーンでニワトリが三度泣いた。あと、最後に去年の青龍映画賞、助演男優賞を悪魔を宿した國村隼が獲ったことに対して、助演女優賞は『プリースト 悪魔を葬る者』で悪魔憑きの少女役を演じたパク・ソダムが獲ったことも記しておく。